善正寺支部 佐々木正次さん
 神仏に失望して亡くなった父
                   四十年かけて兄弟全員を折伏
 本日は、私が二十四歳で入信して四十年近く経った現在、御本尊様に守られ、功徳に包まれている日々を送っていることをお話しようと思います。
 信仰との関わりは、私が小学校五年生の時、父が死去したところから始まりました。
 父はたいへんに信心深い人で、毎日、仕事から帰ると真っ先に、手を清めて神棚と仏壇に手を合わせるという人でした。また、私を自転車の荷台に乗せて道を走っているときでも、道端で地蔵さんを見つけると必ず、一度自転車を止めて、手を合わせてからまた自転車に乗るという、きまじめな人間でした。

神仏に失望して亡くなった父

 その父が四十六歳という若さで胃ガンを患い、手術をして一度は退院したのですが、すぐ再発しました。
 最後は頬もげっそり痩せ、あまりの痛みで、強烈なモルヒネも二十分ほどしか効かないという状況になりました。まさに激痛にのた打ち回りながら、四十八歳の若さで亡くなりました。
 父が死ぬ間際に言い残したことは、「この世に神も仏もない。俺ほどまじめに生きてきた者はいないのに、何でこんな目に遭うのや」というやり場のない怒りでした。
 また、死期を感じた頃、幼い私たちを見ながら、「まだ死にたくない。もう十年、いや、もう五年でいいから。せめて下の子がもう少し大きくなるまで生きていたい」と母に言って悔しがりました。
 まだ小学生であった私を思い、さぞ無念であったろうと思います。「一分一秒でも長く生きたい」との執念からか、死に顔も目を開けたままで、母がいくら目を閉じてやっても、しばらくするとまた目が開いてくるという、実の子の私にとってすら怖い形相でした。
 そんなわけで、「まじめに生きるということと、幸せになれるということとは別」なのだということを思い知らされました。父の死に加え、そのわずか数年後、一番上の兄がまた、若くして父と同じ胃ガンになりました。藁をも掴む思いから、母の宗教遍歴が始まりました。まだ幼かった私は、母と一緒に真夜中、真っ暗な海に供え物を流しに行ったり、家の中で護摩を焚いたりの日々でした。

心の霧が晴れ入信

 結果的に、兄は手術で一命を取り留め、その後、母子家庭であった私は、アルバイトをしながら何とか進学しました。在学中も、「死は必ず訪れる。死ぬまでの間、何を目標にどう生きようか」と模索し、通信講座でキリスト教について学んだり、「福祉の仕事に就こうか」と考えたりしていました。ちょうど大学生だったその頃、日蓮正宗に入信していた妻と知り合い、卒業後に結婚したことが、日蓮正宗との出会いです。
 父の死に様から、宿命の怖さとそれに対する宗教の無力さを思い知らされましたが、一方で、何か自然の力というか、摂理のようなものに畏敬の念を抱いていました。
 結婚後、妻が御下付戴いてきた御本尊様を一目拝したとき、その中に釈迦・多宝如来の他に、悪鬼とされている十羅刹女や鬼子母神などが認められていたことで、今まで自分の思っていた、単純に神様や仏様を拝むという宗教概念とは全く違うものであると感じました。
 当時、勤務地が京都だったこともあり、容易に仏教書専門店などに立ち寄ることができたので、各宗派の書物を比べてみたりしました。難しくて理解できませんでしたが、何となく日蓮正宗の純粋性と理路整然とした法理を感じ取ることができ、宿命や宿業の原因などのモヤモヤしていた霧が晴れたように感じて、入信いたしました。

正邪の違い歴然母の成仏の相

 それからは、真っ先に母に信心の話をしに行きました。当時、母は熱心に本門仏立宗の信仰をしていましたが、「お前が勧めるんやったら」と言って、私の折伏第一号になりました。しかしその夜、電話がかかってきて、「前の宗教に未練がある」と言い出しました。当時枚方に住んでいた私は、電車をいくつも乗り継ぎ、泉佐野で独り暮らしをしていた母の元まで駆けつけ、その後何度も通いました。
 そうこうしているうちに母も落ち着き、朝・昼・晩に一時間ずつ、毎日三時間の御題目を欠かさず唱え、御経日や御報恩御講には必ず、自分で寺院に参詣するという強信者になりました。
 それを苦々しく思っていたのは、私の兄弟たちでした。私は兄二人、姉二人の五人兄弟の末っ子で、発言力もありません。しかも実家の前は大きな念仏宗のお寺で、そのお寺とは昔からの隣組の間柄です。「母をとんでもない宗教に入れた。世間体が悪い」。兄弟が顔を合わせると、いつもそんな空気が漂っていました。それでも、
 「本より存知の旨なり」(御書一〇五六n)
 「いまだ懲りず候」(同一〇四〇n)
との御書の一節から勇気を戴き、兄弟を折伏し続けました。
 間もなく、すぐ上の姉が入信し、一緒に活動するようになりました。その数年後、理論家の下の兄が、自分自身の健康問題から入信に至り、兄弟間の雰囲気も随分と違ったものになってきました。
 しかし、一番上の兄だけは全く理解を示さず、挙句の果ては、「いくらお袋が『自分の葬式は日蓮正宗で出して欲しい』と遺言に書き残しても、俺は念仏でやる」と言い張り、私と激論になりました。そして、「二度と家の敷居をまたぐな」と言われ、「日蓮正宗で葬式を出したいのなら、お前がお袋を引き取って面倒を見ろ」ということになりました。
 事の成り行き上、私が母の面倒を見ることになりました。その十年後に母は亡くなりましたが、半眼半口の成仏の相を現じたときは、母を正法で送ることができてよかったと、亡くなった悲しみよりもむしろ有り難さを感じることができました。
 猛反対した兄は、その後腎臓を患い、人工透析をしながらの長い闘病生活を送ることになって、兄弟で一番先に亡くなってしまいました。
 親子や兄弟であっても心の内は皆違います。家族だから当然判るだろうと、気を緩めることはできません。

子供の結婚式は正法で

 私には、三人の子供がおりますが、子供たちが生涯信仰を貫けるよう、常に「どう信心を教えていこうか」と思いながら子育てをしてきました。子供たちには、小学校に入り平仮名が読めるようになると勤行を躾け、いつも信仰を第一に考えて行動するよう育ててきたつもりです。
 子供もそれなりに成長して、長女が二十一歳になったとき、突然、交際相手を連れてきて、「結婚する」と言い出しました。真っ先に「では結婚式は」という問題が持ち上がりました。
 聞くと相手は、三重県の未だ土葬をするという地域の、しかも農家の長男だと言うのです。いずれ子供の結婚という問題に直面することを覚悟はしていましたが、ついに「来るべき時が来た」という感じでした。相手は、嫁にもらうのだから、当たり前のように「男性側の流儀と宗教で」と言うし、私たち親からは「絶対に日蓮正宗での結婚式を」と主張され、間に入った娘はオロオロするばかりでした。
 当然のことながら、これからの二人の出発を絶対に邪宗教でするわけにはいきません。当方の信仰者としての筋目を話しても、なかなか理解してもらえませんでした。宗教の違いというのは、ふだん何もないときは、本当に何事もない。しかし、いざというときにどう振る舞うのかが勝負だと思いました。
 世間の道理からすると「男のほうに従うべき」という相手の言い分も理解できます。しかし私は、相手の両親に「披露宴など、宗教に関係のない部分は、すべてそちらのおっしゃる通りにします。ただ、宗教の関連する部分だけは、絶対に当方の宗教でお願いしたい。このお願いを聞いていただけないなら、そちらの玄関先で土下座をしてでも、聞いていただけるまで動きません」と言い切りました。
 親として子供にしてやれることはこれぐらいしかないと肚をくくりました。単なるハッタリでなく、本当にやるつもりでした。踏ん張るときに踏ん張らなければ、娘は邪宗の家で独りこの信仰をしていくことになります。やがて月日が流れる中で志も失せて毒気深入になることでしょう。頑固親父で結構、非常識と言うなら言え、所詮、相手のご家族は謗法の本当の恐ろしさを判っていないのだからと、心の中で開き直りました。いろいろと紆余曲折がありながらも最終的に、先方は親戚は全員式に参列しないが、両親二人だけが何とか式に出席するということになり、御本尊様の前での結婚式を実現できました。先方も、折れることのない私共の態度に、さぞかし腹立たしく思ったことと思います。
 今、娘は三人の子持ちとなりました。子供たちにしっかり勤行を教え、娘婿も当初は半分義理で入信したような感じがありましたが、教学試験を一緒に受けるようになってから、仏法の深遠さを感じ取ったようです。仕事で帰宅が真夜中になっても勤行を欠かすことなく、ふだんの話題も、「両親を折伏できるようがんばりや」と、信心の話が中心になりました。
 親のもとでは信心をしていても、子供はやがて必ず独立していきます。結局、子供が一人で信仰を貫く強い信仰心を持たせるまでは、親の務めと思いました。
 東京に住む息子も、結婚相手は信心していませんでした。相手の父親は、若い頃に創価学会員に取り囲まれて折伏された経験があり、日蓮正宗に強い先入観を持っていて、拒否反応を示しました。息子から「相手の父親に呼ばれている」と電話があったとき、「お前、相手の親に結婚の許しをもらいに行くんと違うぞ。しっかり折伏してこい」と檄を飛ばしました。
 結果として、相手方の親戚一同が東京から善正寺に来てくださり、御宝前で結婚式を挙げることができました。今は息子も、夫婦共々一緒に信心に励んでいます。長女や長男一家と一同顔を合わせるのも、「総本山で」となっています。
 自分の子育ての経験から、息子や娘たちには、「小学校に入ったら、すぐ勤行を躾けるように」と、家訓めいたことを言っております。子々孫々末代まで日蓮正宗から離れないようにと、母の納骨を機に墓も総本山の墓地に求めることができました。法統相続には少しの隙も許されません。私共の年代になると、つい孫に甘くなりがちですが、事信心に関しては、厳しい頑固爺でいこうと思っています。


老いを感じて決意ようやく姉を折伏

 さて、私たち兄弟の話に戻りますが、四人の兄弟で唯一信心していないのが、一番上の姉だけとなりました。
 私より十六歳も年上の姉は、私が物心ついたときから、既にもう同じ町内に嫁いでおりました。もちろん、入信した直後から姉の折伏は続けていたものの、主人の親戚縁者も向かいに住んでおり、人一倍世間体を気にする姉は、信心する気配は全くありませんでした。
 私も、「この環境では、いくら言っても信心できるはずもない」と勝手に決めつけていたところもありました。ですから、訪問したときには必ず信心の話をするのですが、おざなりと言うか、気合いの入っていない折伏をしていたと反省しています。
 姉が腰の手術で入院したと聞き、兄弟も、もう皆若くはないことを実感しました。弟としてこれでいいのかと反省をし、見舞いを口実に会う機会を増やしました。
 退院してすぐに訪問し、「姉ちゃんも、この歳になったら、いつ死んでもおかしくないで。人間は必ず死ぬんや。もうそれほど先のことではないで」と死を意識させました。
 「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽きこと鳶毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し」(同一二九〇)
と御書に御示しです。「ほら、子供の時に見たやろ、念仏の葬式で。真っ黒に硬直した遺体。棺桶に入らんで骨をボキボキ折って、やっと入れて。お袋の時は、最期のお別れですって開けたら、ほんまに色白くて美しくて、周りからワーつて感嘆の声が上がったやろ。信仰は、単なる心の拠り所と違うで」と、御書を通して訴えました。
 それでも黙っていたので、応援に来てくれていたもう一人の姉が、「明日お寺で法要があるさかい、正次に迎えに来てもらい」と言うと、「うん」とあっさり頷き、翌日、御授戒を受けさせることができました。人の心は本当に計算では推し量ることはできません。
 その日から二カ月にわたり、毎日一緒に電話を繋いで勤行をし、やっと最近、自分で勤行ができるようになりました。
 これで、今いる兄弟全員が日蓮正宗の清流に身を置くことができました。折伏し始めた四十年前では、想像もつかなかったことです。これは成仏の相を現じてくれた母親の力もあります。「お袋もやるな、死んだ後でも折伏するんや」。
 生きている者は負けてられません。まだ末入信の甥や姪がたくさんいますので、一族の広宣流布をめざして、どんどん信心の輪を広げていかなければなりません。孫には爺と呼ばれても、まだまだ元気はつらつ。体が動く間はもちろん、動けなくなったら逼ってでも、折伏活動に邁進していきたいと思っています。