興福寺支部 国広 誠さん 
 この信心でないと治らない
      パニック症 苦しみから抜け出た今 病に悩む人の折伏誓う
 今でこそ、こうして皆様の前でお話することができますが、私は中学生の頃にパニック症になり、高校生の時には、毎日精神安定剤を服用するという日々を過ごしていました。
 昭和六十年、私は妻との結婚が縁で呉市の円照寺において御授戒を受け、御本尊様を御下付戴きました。これはひとえに、義父母が娘である妻に本当に幸せになってもらいたい一心で、私を折伏してくれたことによります。信仰というものに縁のなかった私を入信させてくれた義父母には、心から感謝しています。

発作の恐怖におびえる日々

 長女誕生をきっかけに法華講員となり、住んでいた広島市の興福寺支部に所属させていただき、信心の喜びも感じ始めたある日の深夜、私は、「死にたくない、助けてくれ」と叫びながら部屋中を走り回りました。息も苦しくなり、体がけいれんを起こしました。妻は、私の体をさすりながら「宿業が出たんだね」と唱題してくれました。すごくショックでした。しかし、この日を境に病気はだんだんひどくなっていきました。
 そんな中、入信して初めて総本山へ行くことになりました。病気を持つ私にとって、バスに長時間乗車して静岡まで行くということは、いつ発作が起きるか判らない恐怖を抱えることになり、できれば行きたくないのが本音でした。しかし、登山を喜ぶ家族に行きたくないとも言い出せず、行くこととなりました。
 車中では、高速道から見える病院を確認していないと不安で、朝まで一睡もできず、総本山に着いても帰りのことが気になって、早く広島に帰りたい気持ちで一杯で、「歓喜の登山」とはほど遠いものでした。これが私の初めての登山の正直な感想です。
 それでも、何度目かの登山となった春季総登山会のとき、恐れていたことが現実になりました。帰りのバスで発作が出たのです。お寺に着き、入講以来お世話になっている山崎さんにすぐ救急病院に連れて行っていただきましたが、その時「国広君の病気は、この信心じゃないと治らないよ」と言われたことを今でも覚えています。
 それからも、ほとんど毎日発作は起こりました。早朝勤行に参詣しているときも、病魔は手を緩めてはくれませんでした。あまりにもしんどいので、妻に「信心して業が出るなら、止めたら楽になるかな」と言ったこともあります。しかし、山崎さんに言われたことが気になり、止める勇気は私にはありませんでした。
 ある日、会社の上司から広島市内の病院に行くように薦められ、通院することとなりました。しかし、よくなる気配はなく、病院を転々としました。
 病院の帰りにお寺に寄りました。お寺に着くと当時在勤されていた久保田雄啓御尊師がおられたので、私は自分の病気について、「正しい信仰をしている私がこんな変な病気になって、周りの人からおかしな信仰をしているのではないかと思われたくないので隠しています」とお話しました。すると御尊師は、「隠す必要はありません。今のありのままを周りの人たちに見せて、信心で自分が変わっていく姿をもって折伏するんですよ」と言われ、さらに、「病院に行ったって君の病気は治らないよ。この信心で治さないとだめだよ」と、山崎さんと同じことを言われました。そして、「しっかり唱題をしなさい。病気から逃げたらだめだよ。闘わずして魔に負けるな。御本尊様に祈っていきなさい」と激励もいただきました。
 
 「本気になって祈れ」と御指導
 
 しかし私は、唱題して少し楽になると唱題を止め、また、しんどくなると唱題するといったことを繰り返していました。久保田御尊師は、お寺で私を見かけると、「唱題してる?」といつも声をかけてくださいましたが、私は返事ができませんでした。病気に逃げていたのです。あまりにも私が本気になっていない態度を見抜かれ、「もっと本気になって、御本尊様に祈っていかないでどうする。逃げてばかりじゃないか。テレビなんか見る暇があるんだったら、唱題しなさい。テレビなんか二年間は見なくていい、押し入れにでも入れておきなさい。国広君はこの信心で病気を克服して、同じような病気で苦しんでいる人たちを折伏していく使命があるんだよ」と厳しい御指導をいただきました。私は涙が止まりませんでした。御尊師の前で初めて流した涙でした。
 後から聞いた話ですが、御尊師はいつも気にかけてくださり、時折電話で、「がんばるんだよ」と妻を励ましてくださっていたそうです。
 そして平成五年、病気に負けたくないとの思いで「輸送班任務をしてみないか」との話に、前々から一度はしてみたいと思っていましたので、すぐに申し込みました。この時から、より症状がひどくなり、通勤途中もたびたび発作が起こりました。
 ある日ひどい発作が起こり、恐怖のあまり体が硬直。ハンドルを持つ手がいうことをきかず、気がつくと反対車線を走っており、前から大型トラックが来ているのが見え、とっさにガソリンスタンドに突っ込んだこともありました。会社も一週間のうち一日、二日しか出勤できなくなりました。出勤しても、「怪我されたら因るから休んでいいよ」と言われるようになりました。
 休んだ日は、お寺に行って唱題をしました。そして、病気がよくなってきたのと、以前から折伏していた弟が入信したことで、少しずつ自分自身が御本尊様のお陰で変わっていくのを実感できました。輸送班任務も全うし、一年に十回以上も登山させていただくことができました。
 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではありませんが、具合がよくなると以前のように唱題もしなくなっていました。今思えば、どこかに気の緩みがあったのだと思います。
 朝の勤行のときに三座の途中で息が苦しくなり、裸足で外に出ようとしたとき、妻が私の体を引き倒し、仏壇の前まで引きずっていって、「あんたはね、そうやって御本尊様の前から逃げるけん、いつまでたっても念仏の命が抜けんのんよ」と厳しい一言を言いました。

御題目の力を実感

 ある時、息苦しさに目が覚めました。また発作が始まったのです。私はパニックになり、隣の部屋で寝ている子供たちのほうへ行きました。実は、子供たちには、病気のことは話していませんでした。妻が制止しましたがはねのけ、走り回りました。びっくりして起きてきた子供たちに向かって妻が「御題目あげて」と叫びました。私が「もう死んでしまうんじゃ。死にたくない」「明日は葬式じゃ」と叫んでいるのを聞いた次女が、「お父さん死んじゃいや」と言いながら御題目を唱えてくれ、長女も泣きながら御題目を唱えてくれました。そして、皆の唱題の声を聞きながら私はスーツと楽になり、その場に倒れ、治まりました。やはり御題目の力はすごいと思いました。その時、家族で信心することの有り難さを、しみじみと感じました。
 このことを境に、発作の回数も少なくなってきました。発作の兆候も判るようになり、発作がきても御題目を唱えるとスーツと楽になり、自分でコントロールできるようになりました。
 そしてますます信心に確信が持てるようになり、平成十四年の三十万総登山には、前年の少年部大会での次女の体験発表がきっかけになり、念願だった両親の折伏が叶い、一緒に登山させていただくことができました。この時に父が「お山は広すぎて、一回の登山ではよう判らん」と言い、現在では母と二人で年に二回以上は登山しています。
 私は本年度より支部の広報部長をさせていただき、月一回の支部報『興流』の編集業務も、皆様のご協力をいただきながら平成十八年度から携わっています。念仏の害毒からか、病魔から逃げ、あらゆる問題に目を背け何事も諦めていた自分が、この信心を続けていくことで「逃げ」の命ではなくなってきました。



 市民病院の待合室で、神経や精神を患っている多くの若者を見たとき、世の中の多くの人たちが病んでいるのだと感じました。病気の最中に、「いつかこの病気になってよかったと思えるときがくるよ」と言ってくれた妻に、「絶対に思えん」と言っていた私が、今は「これが功徳なんだな」と思えるようになりました。
 私が変われたように、きっと皆、信心で変わることができると思います。そういう人たちを折伏する使命が私にはあるのだと感じています。あの時苦しんでいた私を御尊師が励ましてくださったように、今度は私が苦しんでいる方々のためにお役に立てたらと、本日発表させていただきました。
 また、このような発表の機会を与えてくださった御住職・原山元征御尊師に感謝申し上げると共に、平成二十七年に向かい、広宣流布に向かい、御住職の御指導のもと、講頭を中心に異体同心して一人でも多くの人を励まして、共に精進していきたいと思います。