蓮照寺支部 野崎久美子 
 私は、昭和三十四年三月、自ら求めて御本尊様に巡り値うことができました。平成三年七月、学会問題を機に脱会し、以来、支部の講員さんたちと御一緒させていただいて約十五年、その間、何かとお世話になり心から感謝しております。
 今日は、二年前の平成十五年六月に、突然病に襲われたときのことについてお話させていただきます。

悪性リンパ腫との闘い

 病気らしい病気をしたことのなかった私が、少々気になることがあり診察してもらったところ、悪性のリンパ腫で骨髄移植が必要であると告げられました。私はとても不安になり、「先生、これってガンですか」と尋わると、「そういうもんでもないよ」と言葉を濁されました。
 当時、聞いたこともない病名で、何を言われても全く理解できないまま六月いっぱい通院し、「七月一日から入院してください」と言われ、気持ちの整理もつかないまま、お医者さんの言うことだからと、仕方なく入院しました。
 七月一日、病室に入るなり言われるままに手術者に着替え、すぐにストレッチャーが迎えに来て、そのまま手術室に連れて行かれました。
 手術は一時間かかりませんでしたが、少しして病室に戻ると今度は、骨髄液を採るからと言われ、骨盤に麻酔を打ったかと思うと大きな機械の先に付いたドリルがしびれた体に入ってきたのが判りました。先端が骨に当たったとき、鈍い感じがして思わず叫んでしまうと、「動いたらだめ」と大声で叱られました。ドリルが骨の中で折れる危険があったからです。これが「まな板の上のコイ」と言うのでしょうか、生きた心根がしませんでした。
 七月一日から抗ガン剤治療が始まり、八月二十三日まで毎日続きました。一日四本、二十四時間の点滴でした。先生が「そのうちに、毛が全部抜けるからね。頭も眉毛も体中全部」と言いました。先生の言う通り少しずつ抜け始め、毎日、ベッドの上が毛だらけになりました。しばらくすると、ピカピカの丸坊主になり、自分ではないようでした。
 点滴を片時もはずすことができず、夜も昼も休むことができないのです。どこへ行くにも点滴の台を引っ張って歩いていました。
 その上、血液の洗浄のため、大きな機械で血液を左から出して右に戻す治療を三時間もかけて行われました。その間、体を動かすことができません。「私は死ぬんだな。家に帰ることもできない。御本尊様、ごめんなさい」と、溢れる涙をどうすることもできませんでした。
 八月二十三日にいったん退院できました。それからは毎日、勤行、唱題を御本尊様の前に座ってできました。二時間ぐらいしかできませんでしたが、それでも私は必死でした。
 九月、十月、十一月は通院治療となり、十二月一日から、よりきつい抗ガン剤による治療が始まりました。今度は無菌室に入れられ、誰も入ってくることができません。
 点滴の針を入れるときのこと、血管が細く腕からでは入らないために胸から入れようとしました。しかし、なかなか入らず、針が三本曲がってしまいました。先生が、「これはいかん。足から入れましょう」ということになりました。このとき私は、「私のことは御本尊様が決めてくださる。もう御題目しかない。御本尊様にお任せします」と腹を決めました。すると右の太ももの付け根から針が入り、汗だくの先生は大きく息をして、看護婦さんが「野崎さん、やっと入った、もう大丈夫だよ」と言ってくれました。先生は、「白血球、血小板がゼロに近くなるかもしれない。ここから生きて帰れる保証はどこにもないからね」と言われました。私の寿命は仏様にしか判らない、御題目しかないと覚悟を決めました。
 三日ほど経つと、抗ガン剤の副作用のため発熱し、口の中の皮が全部剥がれザクロのようになり、水も飲めません。お腹が痛くてねじれそうでした。誰もいない部屋で誰にも聞かれず一人で唸って苛立って苦しさに耐えていました。早く家に帰りたい、御本尊様の前に帰りたいと思う気持ちと、家に帰ってもみんなの迷惑になるだろうとの気持ちの間で悩みましたが、「死ぬのはいやだ。父さん、母さん、助けて」と、いつのまにか口にしていました。お腹に力が人らないので、声なき声で御題目を唱えていて、「ああそうだ、御題目だ。御本尊様なんだ。せっかくここまで苦労して生きてきたんだ。一日一日を御本尊様に感謝しないではいられない。早くよくなってお山に行くんだ。この変わり果てた姿で正直に、お礼の御登山に行くんだ」と思い直しました。

孫に励まされ御登山ヘ

 ビカピカの頭、足腰も弱りヨチヨチ歩きの状態で、お山に行ってみんなの後ろをついて歩くことができるだろうかという不安な思いもありましたが、決心して見舞いに来てくれた小学四年生の孫に、「拓也くん、おばあさん、お山に行きたいな」と言いました。すると孫が「うん、行こうよ。おばあさんがよくならんと行けないから、早くよくなって一緒に行こうよ」と言ってくれました。とても嬉しくて、涙が出ました。
 そうして平成十五年十二月二十七日に退院し、体力の回復を待って、平成十六年四月二日・三日の支部総登山に、孫に手を引かれなから無事、参加できました。御開扉のとき、帽子を取るには勇気が要りましたが、読経・唱題終了後に振り返られた御法主日顕上人猊下が、一番前に座っていた私をじっと見てくださったような気がして、とても嬉しかったです。
 そして「僧俗前進の年」の本年、蓮照寺では、「支部総登山参加目標の達成」「方面別折伏誓願成就」を御祈念し、四月二十八日の宗旨建立会の佳日を満願日として、一月十九日から「百日参詣唱題行」が始まりました。
 そんな中、私は四月の支部総登山に参加するかどうか迷っていました。体のことも気がかりでしたか、治療費がかさみ生活費がままならない状態も決意できない理由の一つでした。御住職・加藤陵道御尊師が、「野崎さん、登山しましょう」と言ってくださったときどうしようかと思っていると、横から孫の拓也が、「うちは、お金ないけんな」と言いました。すると、御住職様は「絶対、何とかなるからね」と言われ、とたんに私の腹が決まり「参加させていただきます」と御返事しました。

登山啓蒙

 それからは毎日、九時からのお寺での唱題行に参加し、「常に求道の異体同心を確立し、皆の総本山参詣に尽力・啓蒙できる人材に成長なさしめたまえ」と御住職様と共に真剣に唱題し、御祈念しました。吉田講頭さんから、私が登山できることになったお祝いの言葉と共に
「これからは登山啓蒙をしてください」と言われました。
 私は、御登山できる功徳を自分だけに留めていてはいけないと思い、まだ学会に籍をおいていた三女に連絡を取りました。すると、『ニセ本尊』に換えられていました。もっと早くに脱会させておけばよかったと後悔しましたが、くよくよしている場合ではありません。すぐに『ニセ本尊』の恐ろしさを話し、折伏しました。娘は、脱会後の嫌がらせを心配していましたが、それも罪障消滅と諭し、私が支部総登山から帰ったら一緒にお寺に行くことを約束しました。
 登山出発の前日の夕方、「一人が一人の折伏」を果たすことができる喜びから、御住職様に電話で御報告申し上げると、たいへん喜んでくださいました。私は、支部総登山の無事故と大成功を願って共に毎日、唱題している御住職様、吉田講頭さんをはじめ永田登山部長、役員の方たちに報いたい一心だったので、御住職様の喜ばれた声を聞いて、とても嬉しい気持ちになりました。
 翌日、すっきりした気持ちで総登山に行かせていただき、孫と二人、本門戒壇の大御本尊様と御仏主日顕上人猊下に心の底からお礼を申し上げることができました。
 そして、娘は子供二人と共に勧誡を受け御本尊様を御下付戴くことができました。その後、四月十二日には御住職様をお迎えして入仏式を奉修していただき、さらには五月八日の御報恩御講のときに、娘の長男も勧誡式を受けることができました。一時は、身に降りかかる苦しみのあまり、仏様からの使命を忘れかけていましたが、今は、毎日の蓮照寺での唱題行において「日々怠惰なく真剣な勤行・唱題を励行し、仏恩報謝の折伏行を実践できる境界になさしめたまえ」と、御住職様に御祈念していただき、自らも真剣に祈っております。一度は死を覚悟しながら登山できるまで回復でき、仏恩報謝の折伏を果たすことができました。すべて御本尊様のおかげ、御登山の功徳と心から感謝しております。
 今後も、言い訳をする弱い心に負けることなくお寺に足を運び、御住職様と共に唱題を続け、まずは身内から、一人ひとりしっかりと折伏してまいります。