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妙喜寺支部 向 竜矢 |
私が日蓮正宗に入信しましたのは、昭和四十五年、今から三十一年前の私が生まれた年でした。 当時、我が家は、祖父がタクシー会社と自動車修理・販売業を営んでいました。従業員は三十名はどで、事業の跡を継ぐ男子の出生を待ち望んでいた祖父は、私の誕生を非常に喜び、タクシー会社の屋根の上に大きな鯉のぼりを立てたと聞いています。私の誕生は、子供のなかった祖父にとって、兄の子である母を幼少の頃、向家に養嗣子として迎え入れて以来の、念願でした。 ところが、母が私を産んで四カ月目に、母の実の父の折伏で日蓮正宗に入信するや、私たち親子四人は勘当され、家を追い出されてしまいました。悪いことは続くもので、生後十カ月の私は全身に熱湯を浴び、大火傷をしてしまいました。母はただ御本尊様におすがりし、御題目を唱える日々であったと言います。後で聞きますと、我が家のご先祖に火傷で亡くなった方がいたとのことでした。母は、「幼く記憶も残らないうちに転重軽受できたのよ」と話してくれました。そのとき受けた火傷の傷跡は、肘に小さく忘れないように残っています。 またその時分、交通事故で入院していた父が退院したばかりで、充分に働くことができず、母はたいへん生活が若しかったのだと思います。 このような生活環境の中、一通の葉書が届きました。驚いたことに、家庭裁判所からの出頭命令です。祖父母から親子の縁を切りたいという申し出でした。問題は信仰だけでしたので、訴えは却下されました。しかし祖父母は、私たち親子に「二度と我が家の敷居をまたぐな」と言い、八年の間、連絡が取れないという仕打ちが続きました。また、祖父は兄である母の実父にも、信心のことで辛く当たっていました。 入信三年目に松任市に家を新築し、アパートから引っ越すことができました。功徳はいっぱい戴いたのですが、「我が家は貧乏だな」と思っていました。というのも、両親は、日中、精一杯仕事をし、また内職に励み、その上、毎晩のように会合に出かけて留守でした。姉と私は、親に構ってもらえず、寂しい日々を過ごしました。 私の悲しくも一番嬉しい思い出は、私の十一歳の誕生日の出来事です。そのときも父は病気で入院中で、母はケーキを抱え、雪の中を四十分も歩いて仕事から帰って来ました。この日、母は医者から入院するよう勧められましたが、「子供が二人、家にいるから」と断ったそうです。気丈な母は、家に帰るや、屋根の雪下ろしをして、誕生祝いをしてくれました。このとき母から、「我が家には御本尊様がいらっしゃるから、今に必ず幸せになるから、今日の十一歳の誕生日を必ず覚えておいてね」と言われたことを、私は今も忘れません。 このようなたいへんな年月を越え、十五歳になった私は、ようやく、祖父母の家に行けるようになりました。しかし、信心に関しては依然として頑固に猛反対の祖父でした。私は祖父から見れば孫ですから、もう信心の話をしてもよいだろうと、一大決心をして折伏しました。しかし「竜矢まで、わしに信心しろと言うのか」と物凄い剣幕で怒鳴られ、両親の追い出されたことを思うのでした。 「祖父が信心に反対している限り、我が家の広宣流布はあり得ない。よし、自分が社会に出て一人前になって、いつか祖父を入信させるぞ」と深く心に決めました。十八歳のとき、広島に本社のある会社に入社し、はじめは金沢の営業所に配置されました。 三年目には大阪に転勤しました。仕事が判り始めた頃で、心も緩み、仕事と遊びで信心から少しずつ離れていきました。 その頃、高速道路入り口で信号待ちをしていた私の車に、クレーン車が突っ込んで来ました。物凄い音に驚いて、振り向いた座席の右側にクレーンの先なのか、鉄の塊が通り過ぎて行くのが見えました。しばらくすると音のない世界、私は失神しました。 我に帰って、窓から車の外に這いずりながら出てみました。七台の玉突き事故、その一番最初に追突されたのが私の車でした。それは見るも恐ろしい光景でした。私の車は運転席だけに空間が残り、私は助かったのです。事故処理の係官は、生きているのが不思議だと言いました。御本尊様に助けていただいたと、つくづく感じた出来事でした。しかし、その当時私は仕事中心に生活を送っていました。 そのうち、すべてに行き詰まりを感じるようになり、「自分の生活はこんなものではない」と懸命に考えました。二十九歳の終わり頃です。「このままではいけない。もう一度やり直そう。お寺中心にがんばろう」と決心しました。 男子部員として立ち上がるとき、御法主上人猊下の「一人が一人の折伏を」の御指南をやり遂げなければ、男子部の仲間も話を聞いてくれないと思い、何としても「折伏成就なさしめ給え」と御本尊様に祈りました。前から少しずつ話していた従兄弟に、本格的に折伏しようと思い立ちました。 ちょうど彼が仕事、生活、飼っている猫のことなど、悩みの多いときで、すらすらと話が進み、入信、御本尊様を御下付戴くことができました。また、私はこの折伏に当たり、何度も続けて御登山いたしました。 ![]() そんな中、私たち家族の信心三十年目の昨年、祖父母と母、私の四人が家にいたときのこと、祖父が母にぽつりと、本当にさりげなく言いました。「今まで、お前たちを苦しめて悪かった。お前たちの信心をさせてもらいたい」と。これまで何があってもそういうことを言わなかった祖父が、初めて母に言った瞬間でした。母は慌てて屋外のガレージにいた私の所に来て、私を引っ張って祖父の前に連れて行きました。 そして私もはっきりと祖父の口から信心をしたいという言葉を聞きました。私たち親子はこの言葉をどれほど長い間待っていたでしょうか。 私で七代目となる向家は、これで全員日蓮正宗に入信することができました。 親子で三十年、勘当を受けての辛い日々でした。今、勘当が解けました。私にとっては生まれてから三十年間です。御本尊様ありがとうございました。 祖父母の初心の功徳についてお話します。まず驚いたのは、祖母の回復です。親戚中、誰が見ても死ぬ一歩手前と言われていたバーキ ンソン病の祖母が、なんと回復し、自分で階段を上って二階に行けるようになりました。また祖父は十四種類もの病気で苦しんでいましたが、特にあれだけ「痛い痛い」と言って苦しんでいたリウマチが、入信と同時に痛みがピタリと止まったではありませんか。三十年来の母の願いは、信心猛反対の両親を入信させ、ご恩返しをしたい一念であったようです。その願いが叶いました。日蓮大聖人様の、 「道理証文よりも現証にはすぎず」(御書 八七四頁) と仰せの通りです。 私も御本尊様からたくさんの功徳を戴きました。兼六園の近くにある向の本家は増改築し、また、自分の店を開店することができました。 来年の宗旨建立七百五十年・法華講三十万総登山に向け、折伏実践にがんばり、妙喜寺支部男子部の一員として、先頭きって闘っていくことをお誓いし、私の体験発表を終わらせていただきます。 (北陸地方部総会 平成13年4月22日) |