令和2年8月16日付

一家和楽の信心で一族の罪障消滅へ

寿命賜り折伏の使命を知る

 北米と南米の接点にあり、有名なパナマ運河を持つ地峡国・パナマに、中米初の寺院
して平成二十三年に大広寺が建立された。
 今回は、パナマ大広寺のご信徒、パシフイコ・ドミンゲス・ゴンサレスさんにお話を伺った。
 
●まずは自己紹介をしていただけますか。
パシフイコ
 私は、現在七十四歳です。姪の折伏で一九八一(昭和五十六)年に入信し、すぐに家族を折伏しました。
 妻はキリスト教との違いに抵抗があったようですが、入信後は真剣に励んで様々な困難を乗り越え、過去に三回ご登山させていただきました。
 二人の娘は、他の信仰をすることなく純粋に日蓮正宗の信仰に励むことができました。特に長女は、腎臓の病を信心で乗り越え、同じ信心をしている人と結婚して、私に孫の顔を見せてくれました。孫は幼少期に軽度の自閉症スペクトラム障害と診断されましたが、家族の献身的なサポートと自身の懸命な努力で、一般の学校に通えるようになりました。義理の息子の母も若い頃から信心に励んで虚血性心疾患を克服し、最近は糖尿病のため足の指を切除しましたが、杖なしで歩けるまでになりました。私たち家族は経済面や健康面の多くの問題を、大聖人様が「何よりも法華経の兵法を用いよ」と仰せのように、すべて信心によって乗り越えてきました。

●ご家族それぞれが病を克服しつつ信心に励んでいらっしゃるのですね。
パシフイコ
 私自身も、広布のために果たすべき寿命を賜るという体験があります。二〇〇七(平成十九)年から心臓発作で何回か入院しました。手術はまだ必要ないと診断されましたが、病状は少しずつ進んでいました。
 二〇一四年四月十三日、激しい背中の痛みで目が覚めました。胸に軽い圧迫感がありましたが、お寺の御報恩御講に参詣しました。それから四カ月も参詣できなくなるとは夢にも思いませんでした。
 自宅に戻ってから、胸の痛みが我慢できなくなって近くの病院に運ばれ、緊急治療室に入って間もなく心筋梗塞を起こしたので、以前入院していた総合病院に移送されました。当時の政情不安による道路封鎖で時間がかかり、危険な状態での入院となりました。
 その後、詳しく調べる必要がありましたが、それを担当できるチームが一つしかなかったため、順番を待ちました。それまで既に一カ月半以上入院していた私は、同じ病室の人たちと同様、深刻な病状でしたが、他の人たちより元気だったため五日以内に退院するよう告げられました。検査を受けられずに退院しなければならないと落胆しましたが、家族や友人から「唱題しかない」と励まされました。
 家族は病院の医師や担当者と話し合い、早くカテーテル手術を受けられるよう努力し、病院内外の多くの人たちに布教パンフレットを配りながら折伏を実践しました。私自身も同じ病室の方やお世話をしてくださる看護師の方に信心の話をしました。聞く耳を持たない人もいましたが、諦めることなく続けました。
 ようやくカテーテルを挿入して検査すると、いくつかの大静脈が閉塞し、心臓を一且停止して開胸手術を行わなければならないと診断されました。二度と家に帰れないかも知れない。家族に会えなくなるかも知れない。何より、御本尊様を拝することができなくなるかも知れないと不安に襲われ、これは自分との闘いであることに気づかされました。すべては過去世から積んできた業であると受け止め、御題目を唱えながら考えました。また家族との会話で、彼らが私を必要としてくれていることにも気づけました。
 それでも手術を受けることを躊躇していた私のために、娘が当時の御住職(上地信暁御尊師)に御指導を受けに行き、「誰も他人のために決断することはできない。自分のことは御本尊様に真剣に向き合い自分で決断しなさい」と御指導をいただきました。手術を受けないと余命は三カ月、長くても一年です。私は自問自答を続けました。御本尊様が眼前にない状態での勤行・唱題や折伏、教学研鑚は容易ではありませんでしたが、家族が座談会や寺院参詣のたびに、私に御法主上人猊下の御指南、御住職の御指導を伝えてくれました。
 隣のベッドで、一番仲よくしていた方が、四カ月待機して受けた手術のあとで亡くなりました。信心の話をたくさん聞いてくれた友人が、すぐ近くで命を終えるのを見るのは、とても辛かったです。
 私は手術を受けることを決断しました。今こそ御本尊様への確信を持つべき時であり、私を待つ家族のために他の選択肢はありません。
 当時、家族は、私に話していた以上に様々な課題に直面していました。妻は持病の心不全で、私が入院している病院でたびたび治療を受けていました。娘夫婦が働くため、それまで私たちが面倒を見ていた孫も幼稚園に行かせることになりました。そんな中でも家族は、健康的な食事を作って毎日持ってきてくれました。
 やがて、空いていた隣のベッドに新しい患者が入ってきました。私は新しい友人に信心の話ができ、以前のように御題目を唱えられるようになりました。その頃には、看護師や医師は皆、私が日蓮正宗の仏教徒であることを知っていました。
 家族や友人は手術日までの四カ月間、欠かさずに御題目を唱え、御本尊様に当病平癒を祈ってくれました。
 そして二〇一四年八月二十日、手術の日、御住職や家族そして同志の祈りが、確信と安心を与えてくれました。手術室に入る直前、看護師長が「パシフィコさん。南無妙法蓮華経を忘れてはいけませんよ。きっと手術はうまくいきます。二人の娘さんが待っていますからね」と語りかけてくれ、一瞬驚きましたが、勇気に満ちあふれてきました。

●未入信の方から、そのような言葉をかけてもらえたのは不思議なことですね。
パシフィコ
 はい。諸天の加護ではないかと思いました。
 八時間後、娘が私を呼ぶ声で目を覚ましました。側には娘と弟がいました。私は五人兄弟でしたが皆、心臓病で亡くなり、兄弟は私と弟だけです。今回の手術で、家族の宿業が変わり始めたと実感しました。手術を担当した医師から、予想以上に難しかったが成功したと説明を受けました。
 手術から一週間後、退院して六十九歳の誕生日を自宅で家族と祝えました。

●最後に今後の抱負や決意をお聞かせください。
パシフイコ
 折伏により信心の成長があることを学びました。これからも、
「大良薬たる南無妙法蓮華経」(御書一七六八n)
への確信を持って、御法主上人猊下の御指南と御住職(鈴木良法御尊師)の御指導のもと、自分の体験を通して信心のすばらしさを伝えていきます。そして、病気を克服することで信心を深める機会を戴けたことを、本門戒壇の大御本尊様に直接感謝申し上げるためにも、来年こそはご登山させていただけるよう、一つひとつの課題を家族と共に信心で乗り越えていきたいです。