平成24年1月16日付

作品は境界映す鏡
異体同心すればどんな目標も達成
 カナダとの国境に近いニューヨーク州第二の都市バッファロー。ナイアガラの滝に近いことで知られるこの地にも、信心に励む人々がいる。フィリップ・バークさんは、このバッファロー及びカナダ東部方面の地区責任者であり、地域の有力紙に風刺画を掲載する画家でもある。
●どのような経緯で入信したのか、自己紹介もかねて教えてください。
フィリップ
 私は、厳格なカトリックの家庭で育ちました。父は絶対的な存在で、その意にそぐわない生き方をする私はやっかい者扱いで、私は父との確執に長いこと悩んできました。また、二十代の初めからニューヨークタイムズ紙などに風刺画を掲載し、職業的には成功しましたが、世の中の矛盾に怒り、悲嘆し、そしていつも孤独感に苛まされてきました。日蓮正宗の信徒だった家内に出会い、折伏されたのはそんな一九八二(昭和五十七)年のことです。
●入信してどのように変わりましたか?
フィリップ
 変化はすぐに、自分自身に表われました。それまで、いつも怒りに満ち周りの人々を遠ざけていたのに、周りの人と関わっていこうとするようになっていました。今抱えている苦しみが実は過去世からの宿業によるもので、御題目を唱えない限り、本当の幸せはないということを知りました。
●描かれる絵にも大きな変化が表われたということですが。
フィリップ
 入信した当初は、いつか失敗するかも知れないという恐怖感を唱題で乗り越えていました。信心が深まるにつれ、描く画が変わってきました。それまで絵は自分の怒りを表現する媒体だったのが、私の境界を映す鏡のような存在になっていきました。仏法に照らして人々を見ていくことで肖像画がより多面的となり、絵を見た人たちから心の琴線に触れると言われるようになりました。自分の境界が、絵を鑑賞する人々にも伝播していると実感するようになりました。
●妙説寺で昨年九月に行われた仏法セミナーで、「信心と芸術」と題して講演をしたそうですね。
フィリップ
 当日はスライドを使いながら、この信仰によって私の絵が三十年間でどのように変化してきたかをお話しました。古来、偉大な画家の多くは、自身の強すぎるエゴに苦しみ、葛藤してきました。ですから、いかに自我をコントロールし、自らの生命の奥底に潜む仏性を表わしていくかが画家として大事であると気づきました。仕事の前に一時間の唱題を行いますが、迷いや雑念にとらわれず、自分の筆に自信が持てます。筆が私の能力を超えて、絵の対象者に迫っていくような感すら抱きます。見る人は、措かれた肖像の目に力が宿っていると感じるそうで、それが、措いた私自身の生命状態であると合点してくれるのです。
 御住職・滝川信雅御尊師の指導に従って、他の幸せを思って動くことで、仕事にもはっきりと表われてきます。私の絵は、時に人を癒したり励ましたりするようにもなりました。作品を通して、すべての生命体に仏性があることを伝えていくのが私の生涯を通しての夢です。
●ニューヨークまで車で九時間以上と、距離的に非常に離れていますが、普段はどのように活動しているのですか?
フィリップ
 私が受け持つ東カナダ方面は、毎週日曜日と月曜日に妙説寺で開かれる会合に合わせて、トロント、オタワ、モントリオール、ナイアガラなど地域ごとの活動拠点に集まります。インターネットを通して、私たちも勤行、唱題に参加し、御住職の御法話を拝聴し激励・指導を受けることができます。この会合への参加者を増やすため、家庭訪問に力を入れています。
●キリスト教が広まっている国で折伏を行じる難しさはありますか?
フィリップ
 あります。キリスト教は一見、愛を説いているようですが、実は愛という名の恐怖感を植えつけています。このため、日蓮正宗の信仰に関心を持っても、何か天罰が下るのではないかと恐れて御授戒をためらったり、家族の猛反対を受けて諦めたりするケースがあります。
●これから御住職とどんな法華講を作っていきたいと思っていますか?
フィリップ
 昨年、御会式に五百名の結集をとの御指導があり、結果として新来者を含めて五百六十名となりました。この数字に驚いたのは他でもない私たち自身でした。初めて行った仏法セミナーでは六十名の新来者が集まり、十三名が御授戒を受けました。この勢いを保ちつつ、さらに折伏の息吹きにあふれた法華講になっていきたいと思います。御住職からいただいた目標に向かい異体同心して動いていく中で、必ず新しい展開が生まれてくると信じています。
●日本の法華講員にメッセージをお願いします。
フィリップ
 総本山に登山するたびに、日本の法華講の方たちを通じて、法華講とはいかなるものか、また、御僧侶と信徒との異体同心はいかにあるべきか、ということを学んできました。これからを担う将来の世代のためにも、この地にあって私たち法華講の広布の使命を一生懸命果たしていく決意です。