平成12年8月1日付
寄 稿   −妙法への回帰−

元SGIパナマ本部長

 パナマ共和国では、平成5年にルース・トレスさん他6名の元SGI幹部が脱会。平成7年には、280名のメンバーで、初めて現地を訪れた尾林海外部長を迎え出張御御受戒と第2回パナマ法華講総会が開かれた。その後も順調に発展を続け、平成9年には現地法人組織「日蓮正宗テンプル・パナマ」が設立され、それに伴い法華講事務所も開設されるなど、着実に基盤も整備されてきた。
 昨年脱会した、ルイサ・ヒロコ・ノムラ(ヒロコ・デ・チュウ)さんは、元SGIパナマ本部長として、パナマSGI理事長だった今は亡きご主人と共に、パナマでのSGI組織の発展に、心血を注いできた。会員にも慕われ、また、パナマ政府高官との人脈もあったため、パナマ国内での強固なSGI組織の構築、発展に多大なる貢献をしてきた人である。学会問題惹起後、しばらくブランクがあったが、平成11年7月に、ルース・トレスさんと再会し、間もなく妙法寺で勧誡を受け、正しい信仰に戻られた。以来、二人は互いに励まし合いながら他の多くのメンバー共々、御住職・高野泰信御尊師の御指導のもと、日夜、パナマ広布のため駆け回っている。

ロサンゼルス妙法寺支部
ルイサ・ヒロコ・ノムラ

 私は中米のパナマ共和国に在住し、ロサンゼルス妙法寺支部に所属するルイサ・ヒロコ・ノムラと申します。以前はヒロコ・デ・チュウと称していましたが、二年前に主人が亡くなってからはパナマの法律に従い結婚前の姓に戻しました。
一九六一年、仏法のことについて全く知らない私でしたが、叔母に連れられて、池袋の常在寺で御授戒を受け入信しました。御授戒のとき、すばらしい感動を受けたのを覚えています。その夜の座談会で、どうして御授戒で幸福感を感じたのか質問したところ、「大聖人様の仏法は我々の生命の故郷である」との返事でした。そのとき私は信心の確信を得、人生の目標を定めることができました。
 その後、私は、日本に留学中だったパナマ出身の主人と出会い、共に「広宣流布に励んでいこう」との意気も高く、一九六五年、パナマに渡ったのです。
 仏法に関するスペイン語の教材など皆無でした。しかし、真心をもって仏法の話をしていくうちに、一人二人と入信者が増えていきました。子供がまだお腹の中にいたときでも、パナマ市内やコロン地方を折伏のため駆け巡りました。三年目の一九六八年には支部が結成され、私は初代支部長に任命されました。
パナマに家を持ちたいと思っていた私たちは、食費や衣料費などを節約し、建築費を貯めていました。無我夢中で信心活動をしていると、御本尊様から偉大な功徳を戴き、ついに一軒家を持つことができたのです。その翌年、二人目の子供を授かりました。
     ○
一九七四年、SGI会長の池田がパナマに初訪問の際、主人の幼少時代の友人であったノリエガ将軍の働きで、国賓待遇で迎えて大統領との会見やパナマ大学での名誉教授の称号授与などを実現させました。その後も、池田は将軍に贈り物をしたり、交際を深めていました。今はすでに存在しませんが、ノリエガ将軍がパナマの景勝の地に池田個人の名を付けたこともありました。
 信心活動が多忙になるのに比例し、主人の社会的地位も向上していきました。主人は地元の高校の化学の教師から新設の国立セメント会社の工場長になり、やがて理事長になりました。
工場の近辺の道路を補修したり、地域の人たちのために様々な協力をして、主人は皆から感謝されていました。また、これで学会のために時間と労力だけでなく、多額の寄付金もできるようになりました。一九八四年に三階建てのパナマ会館を建てる際にも、主人は莫大な量のセメントを学会に寄付しました。
 私たちは宗教法人「パナマ日蓮正宗創価学会アカデミー」を設立し、主人が理事長、私が副理事長となり、組織では私がパナマ本部長を受け持つという体制になりました。そして広宣流布のため、活動の範囲を中南米にも広げようと一層、折伏に励んでいきました。
一九八六年一月、主人はパナマ大使として台湾に赴任が決まりました。私はパナマ本部長としての責任感から、この後四年間、一カ月間は台湾、三カ月間はパナマに滞在という生活になります。また、主人が大使になって三年後の十二月、私の母がパナマを訪問していたときに、米国によるパナマ侵攻に直面しました。事件勃発の際、何よりも会館のことが気がかりで、すぐに駆け付け、御本尊様の無事を確かめました。アメリカ兵が会館を査察していたときは、驚いて冷や汗が出ましたが、彼らは疑わしいものを何も発見せず、その場を去っていきました。
一九九〇年初頭、国内の混乱の中、新政権が誕生しました。
私は母を日本に連れて帰り、自分は一刻も早く台湾にいる主人の元へ行き、新大使が赴任してくるまで、大使館関係の引き継ぎ書類の整理をしようと決めました。しかし、新大使の赴任時期が不明でしたので、私と、ガブリエル・マルチネス青年部長、そしてルナ支部長(弁護士)の三人で、SGIパナマの理事長職の暫定的な変更の措置をとりました。私たちの留守中、小切手へのサインや、組織を統括する代務者が必要だったからです。日本の創価学会本部へは、台湾から詳細を報告するつもりでした。
一月、母を日本に送り届け、台湾に向かった私は、到着後、主人が担当していた領事館の残務整理を手伝い始めました。そうした状況があり、日本の学会本部への連絡が遅れてしまいました。
 二月、ロサンゼルスでSGIの総会があることを知った私は、パナマ本部役職の一時変更について、日本から渡米する最高幹部に報告できる機会だと思い、参加の許可を貰うため、日本の学会本部に電話をしました。すると「パナマの代表者はすでに総会に参加することになっているので、あなたはその総会には参加できない」と言われました。私は自分の耳を疑いました。あまりにショックなことでした。一体何があったのか、なぜ学会本部が冷たい態度をとるのか、当時は全く判らず、取るべき術もありませんでした。
 その後、新大使が台湾に赴任して、私たちはパナマヘ帰る荷造りを始めました。主人はしばらく日本に滞在後、アメリカにいる姉を訪ね、国情が正常になる頃パナマに帰ることにしました。
 私がパナマに着いたとき、私の立場は中に浮いて、組織は騒然としていました。学会本部が私の帰国を知って、いろいろな機会に副会長をパナマに派遣していました。主人と私は日本へ飛び、池田に直接この状況を説明しようとしましたが、実現しませんでした。ある副会長が、池田が私たちの話を聞いてくれるかも知れないと言いましたが、池田からもその副会長からも、返事は一切ありません。その後、日本の学会本部は、パナマの本部幹部全員をサンフランシスコの会議に招集しました。その席上、私は池田からの指示として、パナマ本部の指導長に任命されました。
しかし後日、会館に行くと、幹部たちが私を無視したり、蔑視しているのに気づきました。サンフランシスコ会議での彼らは、私の新たな役職に賛成していたように見えたので、彼らの態度の急変に驚きました。これは次第にエスカレートし、メンバーが、挨拶のために私に近づくのもいけないような雰囲気になりました。
 いたたまれませんでした。私がいれば純真なメンバーに迷惑がかかるだろうし、理事長のマルチネスさんもやりづらいだろう。深い悲しみと、こんなはずではなかったのにという思いが交錯し、今後、会館に行かないという決心をしました。一九九一年のことでした。
 私は新しい仕事を始め、それに没頭しましたが、心身の極度の疲労と混乱もあって、次第に勤行もできない状態に堕ちていました。人生の目標、信心の確信、活動の場を失った人間の弱さというのでしょうか、退転してからの私の唯一の願いは「私の人生はもうすでに終わっている。誰にも知られることなく早く死にたい」ということでした。こういった悩みなどが原因で私は胃潰瘍を患い、さらに一九九八年には主人が突然に他界し、地獄の苦しみが続きました。心の中は空虚で何も考えられず、まるで夢遊病者のようでした。
     〇
一九九九年七月、法華講員のルース・トレスさんから連絡があり、ロサンゼルスからパナマに御僧侶がいらっしゃるので、私の主人の一周忌の追善供養を一緒にしたいとのことでした。彼女が家族でもない人の追善供養をしたいと言ってるのに、私は自分の主人のために何もしていないことを恥じ、「主人のためなら」と承知しました。妙法寺御住職・高野泰信御尊師の導師による法要は、私にとって退転後の初めての勤行でした。



 十月に入り、パナマを離れて気分転換の小旅行でもしようかと考えていた矢先、ルース・トレスさんからロサンゼルスの妙法寺に行くという話を聞きました。さっそく同行を申し出たところ、彼女は快く承知してくれて、翌日、一緒に出発しました。
 ロサンゼルスに着いて翌朝、ルースさんは妙法寺に行くと言いました。私もホテルに一人でいたくなかったので、軽い気持ちでついて行ったところ、またもや彼女は、塔婆供養の用紙に私の主人の名前を記入してくれているのです。本来ならば私がするべきだと思い、この度は私の名前で申し込みました。法華講の皆さんと一緒に勤行をさせていただき、終了後にロビーで休憩していると、高野御住職が近寄ってこられ、「そろそろ目を覚ますときではありませんか」と懇切丁寧に話してくださいました。
 しかし、まだ、日蓮大聖人の仏法を正しく信受しているのは創価ロサンゼルスからパナマに御僧侶がいらっしゃるので、私の主人の一周忌の追善供養を一緒にしたいとのことでした。彼女が家族でもない人の追善供養をしたいと言ってるのに、私は自分の主人のために何もしていないことを恥じ、「主人のためなら」と承知しました。妙法寺御住職・高野泰信御尊師の導師による法要は、私にとって退転後の初めての勤行でした。
 十月に入り、パナマを離れて気分転換の小旅行でもしようかと考えていた矢先、ルース・トレスさんからロサンゼルスの妙法寺に行くという話を聞きました。さっそく同行を申し出たところ、彼女は快く承知してくれて、翌日、一緒に出発しました。
 ロサンゼルスに着いて翌朝、ルースさんは妙法寺に行くと言いました。私もホテルに一人でいたくなかったので、軽い気持ちでついて行ったところ、またもや彼女は、塔婆供養の用紙に私の主人の名前を記入してくれているのです。本来ならば私がするべきだと思い、この度は私の名前で申し込みました。法華講の皆さんと一緒に勤行をさせていただき、終了後にロビーで休憩していると、高野御住職が近寄ってこられ、「そろそろ目を覚ますときではありませんか」と懇切丁寧に話してくださいました。
 しかし、まだ、日蓮大聖人の仏法を正しく信受しているのは創価学会だけであると信じ、池田に対して報恩感謝しなければという思いが心のどこかにありました。私はお寺を出た後、高野御住職の説明を何度も考え直しました。
 そして翌日、十月十日の妙法寺での御会式に参加し、勧誡式を受け入講しました。そのとき、私は一九六一年に御授戒を受けたときと同じ感動を再び味わったのです。「これだ!今まで私が信じてきたのは日蓮正宗の御本尊様なのだ」と確信し、それ以来、毎日の勤行に加え二時間の唱題を始めました。正法への回帰は、乾ける大地が水を一気に吸い込むように、私の中に失われていた感動を蘇らせてくれました。人生の歓喜を再び取り戻したのです。
 その後、脱会してきた法華講員の人から、地元の学会が主人や私に関してどんな非難中傷を流していたか教えてもらいました。その一つに、私たちが「麻薬の密売をしているので、一生パナマに帰れない」というのがありました。生前の主人が聞いたら、彼らを即座に名誉棄損で提訴していたことでしょう。しかしこれで、長年の疑問が氷解しました。学会本部がデマを信じ、先入観で対応していたので、私たちが一生懸命に説明をしても理解してくれなかったのです。その後、自らの誤りに気づいた学会は、状況打開のため私を本部指導長にまつりあげたのです。
 生前主人が、パナマSGIの理事長として日本へ行き、池田と話をしようとしたとき、主人に大使の肩書きがなくなったために学会の態度は豹変し、会う必要などないと突き放しました。学会組織というのは、表面上、一般会員にはいつも親切に接しなさいと言っていますが、会員と幹部の間には絶対に越えることのできない高い敷居が存在します。
      ○
 主人のただ一つの思いは、パナマの学会組織のために、どうするのが一番かということでした。かつての私たちの広宣流布への闘いの結晶であった三階建ての立派な会館も、学会は大した理由もなく手放し、交通の便の悪い所へ新会館建てたようです。「毒気深入失本心故」の文字が目に浮かびます。
私が以前創価学会員としてがんばったのは、学会が、日蓮大聖人様の正法正義、総本山の大御本尊様を信仰の対象として、正しい信心を教えてくれると信じてきたからです。創価学会の存在意義は、時の御法主上人猊下の御指南を正しく会員に伝えることにあるはずでした。それがいつの間にか、教義を曲げて伝え、今や三宝を無視して御法主上人猊下や総本山大石寺を愚弄する団体になり下がっていることに胸が痛みます。
私は今年の四月、御霊宝虫払大法会に参詣させていただきました。総本山大石寺での二度の御開扉と丑寅勤行そして御霊宝虫払の儀にも出て、これまでにない感激で胸が一杯になりました。大御本尊様おわします総本山大石寺が私たちの信仰の根本道場であることは、過去、現在、未来を通じて決して変わることはないと確信しました。
 これからは正しい信心を貫き、仏祖三宝尊に報恩感謝できる毎日であることを願い、主人の追善供養と自分白身の謗法罪障消滅を祈りつつ、力一杯生きてまいります。
 最後に、御法主日顕上人猊下のますますの御健勝と、宗門のますますの御興隆、発展を心よりお祈り申し上げ、擱筆いたします。