宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第8回】 
 
三門改修と修繕の歴史C

日正上人の修繕
大正元年

 明治時代の写真を見ると、三門の棟が波打ち、木材が劣化しているように見えます。
 またこの時、雨漏り等によって外見だけでなく内部も傷みが激しくなっており、御当職であった総本山第五十七世日正上人はこれを大いに憂慮されていました。そこで明治四十五(一九一二)年七月、日正上人は青木守高氏に三門の修繕を依頼され、守高氏の委託を受けた棟梁・有川助蔵氏(後に出家され蓮東坊住職を務められた有川法梁御尊師、現在の静岡市妙盛寺住職・有川岳道御尊師の御尊父)が修繕を行い、同年の大正元年十月(七月三十日に改元)に落成しました。
 この時の修繕は、梁・柱等の取り替えの他、従来の檜皮葺きが改められたのが最大の特徴です。この修繕から十一年後に起きた大正十二年の関東大震災では、総本山も客殿・塔中各坊の屋根・壁面、塔中参道の石垣が激しく破損しましたが、三門に大きな被害はありませんでした。こうしたことから、将来を見据えた修繕だったことが判ります。
 また、その年の六月、宗名が「日蓮宗富士派」から「日蓮正宗」と公称することが認められ、十月二十一日・二十二日の総本山御大会に合わせ、宗名公称奉告法要が行われました。三門修繕の落慶法要は、その後に奉修されました。
 この大正時代の三門には明治時代の写真になかった「日蓮正宗総本山」の額が掲げられており、この工事と同時期に取り付けられたものと思われます。
 大正期の改修は、「修繕」と称しているように、破損箇所の修復を主な目的としており、三カ月という工期からも、大規模の工事ではなかったことが判ります。
 そこで昭和四(一九二九)年、大聖人第六百五十遠忌を控え、記念事業として三門の大規模な改修計画が持ち上がってきたのです。

日開上人の大改修
大聖人第六百五十遠忌


 御遠忌を控えた昭和の初め頃は、大正時代から続く不景気が、戦争に向かってさらに拍車をかけていました。そのような状況でしたが、堂宇の老朽化は著しく、それらの修繕・改修は急務でした。そこで、宗祖大聖人第六百五十遠忌の記念事業として、三門・五重塔・客殿をはじめとする諸堂宇の改修をすることになり、御当職であられた総本山第六十世日開上人は、自ら筆を執られ、『大日蓮』誌で、記念事業の御供養への参加を呼びかけられました。
 昭和六年十月、大聖人第六百五十遠忌が日開上人大導師のもと奉修されましたが、記念事業は遠忌法要の後も継続され、三門と五重塔の修繕は、遠忌法要の後になりました。

半解体しての大改修
銅瓦葺きへ


 昭和七年十一月には、通称「七五三台風」と呼ばれる大きな台風が接近して、静岡県でも四十七人の死者・行方不明者を記録し、総本山では二百本の杉や檜がなぎ倒されるなど、大きな被害をもたらしました。さらに、三門の調査を進めてみると、棟木の腐蝕など内面的な破損が激しく、修理の程度について慎重な議論が重ねられました。
 そうしたことも関係し、本格的な着工は昭和九年頃となりました。当時の総監・水谷日隆御尊能化(後の第六十一世日隆上人)の「本山の表玄関たる三門の興廃は一山の盛衰を物語る重要な建物」(正宗教報)との力説もあり、この昭和初期の改修は、半解体しての大がかりな工事となり、この改修で屋根が銅瓦葺きに改められました。
 銅は、屋根の葺き材としては高級な仕様になりますが、遠忌局の計らいにより銅瓦は一枚当たり五十銭で、全国の僧俗から御供養を募りました。しかし日本全体が困窮していた当時、あの三門に必要な枚数を集めるには、呼びかけをする遠忌局としても、御供養をさせていただく僧俗の側も、双方にたいへんな苦労があったそうです。樺太や台湾など、外地に在住していたご信徒からも寄せられた御供養による、総数二万千六百三十枚もの銅瓦一枚一枚の裏には、御供養者の氏名が墨書されており、大規模な工事の御英断をされた日開上人が、当時の僧俗の苦労に対して、たいへんな御気遣いをなされていたことが判ります。
 昭和十年、三門の大改修が完了し、同年四月十五日、日開上人大導師のもと、御霊宝虫払大法会と兼ねて、御遠忌記念事業完成報告式並に三門落慶式大法会が奉修されました。
 こうして遠忌局発足から七年の歳月を経て荘厳された三門は、第二次世界大戦の戦火にも耐え、日蓮正宗総本山の表玄関としての佇まいが護られたのです。