宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第7回】 
 
三門改修と修繕の歴史B

青木守高氏の生い立ち

 青木守高氏は文久二(一八六二)年九月十四日、陸奥国磐城郡草野村大字泉崎(現在の福島県いわき市)の農民・青木七右衛門氏の五男として出生し、初め「末吉」と名付けられました。父、青木七右衛門氏は、文久年間に真言宗から日蓮正宗に改宗して妙法寺の信徒となりました。
 福島県いわき市の妙法寺第三十二代住職を務めた青木法順御尊師は兄に当たります。荒田目出張所(福島県いわき市・大華寺の前身)や磐城教会所(福島県いわき市・法船寺の前身)の建立のために尽力されました。
 四歳で母親を亡くした守高氏でしたが、十五歳の時、磐城郡狐塚村(福島県いわき市)の宮大工・酒井喜多次氏のもとに弟子入りしました。

明治の御影堂大改修

 その後、努力を重ねて一人前の宮大工となった守高氏は、多くの弟子を連れて関東で実績を積んでいました。そんな折、兄・青木法順御尊師の呼びかけもあって大石寺に登山し、総本山第五十六世日応上人より、総本山の諸堂整備事業を引き受けてもらいたいとの御依頼を受けたのです。
 それに先立つ明治二十九(一八九六)年九月三日、守高氏は父・七右衛門氏を亡くしており、守高氏は初め、その御依頼をお断りして帰省するつもりでいました。しかし、父七石衛門氏の「総本山への御奉公を第一に励みなさい」との遺言を思い出し、御影堂大改修をはじめとする諸事業を引き受けたのです。
 御影堂の大改修の際には、百人以上の職人が総本山に定住しながら改修に従事していたと記録されており、その多くは守高氏有縁の福島の大工だったそうです。御影堂の木材の墨書には、福島の地名も見られ、後に大正元(一九一二)年の三門修繕を担当する有川助蔵氏や、昭和の改修で現場監督を務める谷平利三郎氏も、守高氏の縁で総本山に登山した大工です。

大聖人第六百五十遠忌の三門大改修

 守高氏が三十九歳の時、明治三十五年五月に御影堂が落成し、その後も関東を中心に多くの末寺の設計から新築・改築工事を請け負いました。守高氏が携わった寺院には、深川(東京都江東区)の法道会(現在の東京都豊島区・法道院)、妙光寺(東京都品川区)、本広寺(静岡県沼津而)、蓮興寺(静岡県沼津市)、妙縁寺(東京都墨田区)、蓮行寺(栃木県下野市)、蓮成等(静岡県富士宮市)、下谷(東京都台東区)の常在寺(現在は東京都豊島区)、妙本寺(埼玉県宮代町)、総本山塔中寂日坊、蓮葉庵等が挙げられます。
 そして大聖人第六百五十遠忌を二年後に控えた昭和四(一九二九)年、遠忌局が設置され、記念事業として客殿・五重塔・三門の大修繕、その他諸堂宇の修繕を行うことが決定しました。総本山をはじめ、全国の末寺で実績を積んだ守高氏は、遠忌局からの要望もあり、最後のご奉公と決意して、これを担当しました。
 この事業に当たっては養子である青木保男氏を督励しつつ、客殿(昭和六年)・五重塔(昭和八年)の修繕を終え、昭和十年に三門の修繕が完成したのでした。
 それから二年後の、昭和十二年一月二十九日、七十六歳で逝去され、御当職・総本山第六十一世日隆上人大導師のもと、葬儀が行われました。
 その後、保男氏も宮大工として大成し、昭和十六年十二月、日蓮正宗の富士学林(御僧侶の教育施設)と付属図書館(富士学林と図書館の建物は今の法祥園の場所にあった)を建築するなど宗門に大きく貢献しています。