宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第5回】 
 
三門改修と修繕の歴史@

創建から二百年 檜皮葺き屋根の修繕

 三門の屋根が、建立当初の享保二(一七一七)年から大正元(一九一二)年までの約二百年間は檜皮葺きであった痕跡が、現在行われている三門大改修中に発見されました。
 檜皮の耐久年限は三十年から四十年とされますから、檜皮葺きの耐用年数上、おおよそその周期で適時、葺き替えられたと考えられます。
 それを踏まえると、総本山第三十世日忠上人の代(元文元年から同五年・西暦では一七三六から一七四〇)に三門屋根の葺き替えが行われた記録が残っていますので、この時が三門建立以来、初めての葺き替えであったと推測されます。
 また、天保二(一八三一)年に宗祖日蓮大聖人の第五百五十遠忌法要を奉修された総本山第四十八世日量上人は、書状に、
「御遠忌も近々相成候間来春三月頃迄ニ本堂仕上ケ中門山門鐘楼鼓楼経蔵等迄諸伽藍段々次第ニ修理相加へ申度存念ニ御座候」(諸記録)
と、大聖人の御遠忌大法要に際し、総本山の堂宇をすべて修理なされたことを述べられています。この時、三門も屋根の葺き替えや修復工事が行われたことが判ります。
 なお、総本山第三十五世日穏上人が御在職中の明和二(一七六五)年から同七年の間に、三門前に下馬札を建立された記録があり、総本山には当時のものと考えられる下馬札が所蔵されています。

日霑上人の修繕(一回目)

文久二年屋根総葺き替え


総本山第五十二世日霑上人は、日本が内憂外患の様相を呈した江戸時代の終焉から明治前期に三度にわたり御登座され、総本山を護持された御法主上人です。
 特に幕末の騒乱に加え、度重なる震災で日本全体が困窮する中、総本山の諸堂宇の修復に御尽力なされた記録が数多く残っています。
 この間には、三門も二度にわたり修復が行われています。一度目の修復は、三門の建立から百四十五年を経た文久二(一八六二)年に、屋根の総葺き替えが行われました。二度目は、明治期に行われています(詳しくは次回)。「三門棟札」には、現在も富士宮市に地名が残る、「淀師」の住人である半兵衛という檜皮師が葺き替えを行ったと記されています。
 半兵衛の詳細は不明ですが、同時代に大工職として、笠井半兵衛信久(笠井本家第十三代)という人物がいました。笠井家は古来、本宗の信徒であり、六代・笠井甚兵衛は総本山第二十二世日俊上人代の天和四(一六八四)年に半鐘を、八代・笠井信重は第二十六世日寛上人代の享保三年に梵鐘を総本山に寄進しています。
 このことを考え合わせると、笠井半兵衛信久が三門屋根の総葺き替えを行った「桧皮師 半兵衛」であったと考えられます。
 さて、三門屋根の総葺き替え成就の法要は、同時期に修繕された御宝蔵の落成式と合わせて賑々しく執り行われました。当日の様子を『日霑上人伝』には、
「文久二年壬戊の三月廿一日、御宝蔵営繕、悉皆落成並に山門屋根葺き上りに付き開場の式を行ふ(中略)参拝の群集、山門四面の広場に立錐の地もなく実に前代未聞の壮観なりしと云々」(日霑上人伝)
と、三門屋根の葺き替えと、御宝蔵の落成を寿ぐため参拝した僧俗によって三門の周りは立錐の余地もない賑わいであったことが記されています。