宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第4回】 
 
三門建立に尽力された御先師と先達A

天英院殿

 天英院殿こと近衛煕子は、関白太政大臣の近衛基煕を父とし、後水尾天皇の第一皇女である常子内親王(品宮)を母として、寛文六(一六六六)年三月二十六日に五摂家筆頭の京都近衛家に生まれました。
 延宝七(一六七九)年、煕子は十四歳の時、甲府藩主の徳川綱豊公(後の六代将軍・家宣公)の正室として輿入れしました。その後、宝永元(一七〇四)年に、夫・綱豊公が家宣公と改名し、第五代将軍綱吉の後嗣として江戸入りする際、一緒に江戸へ入られました。
 煕子が大石寺に帰依した背景には、護持僧を勤められた日衆師(後の大本坊日顕贈上人)が大きく関わっています。
 もともと日衆師の母は煕子の乳母でした。『寛政重修諸家譜』によりますと、乳母は近衛家の家司(公家などで働く人のこと)で、その名を「下村頼母介某が女」と記されています。この乳母は煕子が甲府から江戸へ移った時もお供をされ、また、日蓮正宗の信仰を生涯護り続けられた方で、宝永七年に逝去の際には「源高院妙壽日成」との法号を賜っていることが総本山の六壷過去帳などから判っています。
 その子息である日衆師は、西山本門寺の末寺であった京都一条の上行院で出家得度した後、先述のような関係性から煕子の護持僧として活躍し、甲府藩江戸屋敷までお供をされました。
 日衆師はその後、正式に当家に改衣し、貞享元(一六八四)年五月二十四日、江戸常泉寺(東京都墨田区)の第七代住職となります。
 煕子も日衆師の縁により常泉寺の檀那となっていたため、元禄十二(一六九九)年に長男の夢月院が逝去した際に、
「小梅常泉寺にて葬送、御導師日顕(日衆師)也、此の僧御台所御帰依に依る」(徳川諸家系譜二 一〇八n)
とあるように、常泉寺で、日衆師を導師とし葬儀が執り行われました。
 総本山第二十六世日寛上人は日衆師とその母について、
「源高院殿(天英院殿乳母)の勲功莫大也。日顕贈上人の旧功重大也。親子一体師弟不二也」(松島家所蔵文書)
と、親子の堅固なる信心と、広大なる功績を讃歎されています。
 こうして、江戸においては常泉寺を介して篤く富士門流の教えを信受した煕子は、大石寺や常泉寺の外護に赤誠を尽くされ、常泉寺に対しては幕府より、朱印三十石と三千四百坪の土地が宝永七年に与えられました。さらに江戸城本丸客殿が常泉寺書院の建物として寄進・移築され、この他、煕子個人からも、本堂造営のため千五百両が御供養されています。
 また、総本山大石寺に対しても格別なる思いをもって外護に努められ、その代表ともいうべきは、夫の家宣公と共に三門建立のために大木七十本と金千二百粒の御供養をされたことです。これが契機となり三門建立事業が大きく動いたことは言うまでもありません。
 なお、この御供養で残った浄財は五重塔建立にも活用されています。この他、享保三(一七一八)年には、塔中・寿命坊も建立寄進されています。
 こうした中、正徳二(一七一二)年十月に将軍・家宣公が薨去したことから、煕子は落飾(貴人が髪・飾を落として仏門に入ること)して天英院殿(後に一位様)と呼ばれるようになりました。
 しかし、立場は変わっても、寛保元(一七四一)年に七十六歳で逝去されるまで、総本山大石寺や、常泉寺の興隆・発展に外護を尽くしました。
 天英院殿の篤き信心を賞し、五重塔の北側には、天英院殿の供養墓が建立されています。天英院殿は大石寺のさらなる興隆発展と世界広布の実現を、今もなお、五重塔の側で見守っているのです。

三門造立の棟梁 石川万右衛門

 総本山の御経蔵は昭和四十八年十月に移転新築されました。その時の記録によると御経蔵の垂木に、棟梁・石川万右衛門(亮重)の名前が記されていたことが判ります。この石川万右衛門こそ、三門建立の指揮を執った人物です。
 おそらく、御経蔵修繕時(正徳三年十一月二十一日)の緻密な仕事ぶりをご覧になった総本山第二十五世日宥上人が、この人ならばとの思いで託されたのでしょう。他にも万石衛門は、宝永年間(一七〇四〜一七一一)に駿府城内の普請なども手がけています。
 この石川万右衛門をはじめとする「下山大工」は、甲斐国下山(現代の山梨県身延町)に住していた腕利きの宮大工集団で、総本山内の多くの諸堂宇が下山大工の手によってなされています。
 その事蹟を挙げれば、寛永九(一六三二)年の「石川與十郎家次」による御影堂建立をはじめ、元禄年間の御影堂の大改修や、客殿、総門などの改修・改築と、まさに総本山の堂宇の歴史に下山大工あり、と言っても差し支えないほどです。特に明治二十二(一八八九)年の三門改修も、下山大工「石川五右衛門源規重」の手によって工事が進められています。
 このように大石寺諸堂の建立に尽力した下山大工の石川家は一族で大石寺に帰依し、富士の清流に浴してきました。三門造立の総指揮を執った万右衛門もまた、本宗信徒として純真な信心に励んだことは、「本智宗(霜)玄信士」との戒名を戴いているところからも伺えます。
 万右衛門の墓は大石寺墓地(典礼院)にあり、墓石に刻まれた逝去の日にちを読み取ってみますと、「亨保二年丁酉十二月二日」となっています。三門の落慶が享保二年八月二十二日ですから、万右衛門は三門落慶よりたった三カ月弱の後に亡くなっていたことが判るのです。
 まさに死の直前まで、身命を賭して三門建立に尽力した万右衛門。その篤き信心もさることながら、大工職人としての誇りと威信をかけて三門造立に臨んだことを、三百有余年経った今もなお、この墓石が物語っています。

法華講衆

「三門建立に尽力された御先師と先達@A」では、日永上人と日宥上人の御事蹟、さらに天英院殿と棟梁・石川万右衛門亮重の生涯を取り上げましたが、三門の棟札には、前掲の御歴代上人・諸檀那と並んで、
「其外当地並武州江戸三ケ寺等惣而末流相続男女等」(諸記録)
との名前を見ることができます。
「武州江戸三ケ寺」とは、日宥上人の出身にして天英院殿の江戸での菩提寺の役目を担った小梅常泉寺と、同じく江戸にあった下谷常在寺(現在の東京都豊島区・常在寺)や中ノ郷妙縁寺(現在の東京都墨田区・妙縁寺)の三力寺を指します。この他、大石寺の近隣に在住する僧俗をはじめ、全国からの尊い御供養があって、三門が建立されたのです。
 真心からの財の供養に止まらず、多くの身の供養がありました。詳細な記録は残っていませんが、御影堂建立の時には、大石寺の在所である上条から六百八十七人、下条から二百三十八人をはじめ、延べ七千二百十三人もの人が手伝ったとの記録が残っています。一概には言えませんが、御影堂が一年足らずで建立されたことを思えば、発願から五年あった三門建立の時にも多くの地元檀信徒が力を合わせ、尽力されたことは想像に難くありません。
 当時の法華講員一人ひとりの財・身にわたる真心の御供養と信心があったればこそ、今日の威容を構える三門が建立されたのです。