宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第3回】 
 
三門建立に尽力された御先師と先達@

三門建立に尽力された御先師・先達の初めとして、三門建立を願われ資金を準備して後代に託された総本山第二十四世日永上人、先師の願いを受けて建立を実現された第二十五世日宥上人を紹介します。

第二十四世日永上人

 第一回「壮麗な佇まいと意義@」で紹介したように三門建立の歴史は、江戸時代の正徳二(一七一二)年までに総本山第二十四世日永上人が「黄金七百両」を、そして第二十五世日宥上人が「黄金二百両」を建立資金として準備されたことに端を発します。
 日宥上人が三門建立の成就に当たって示された『三門供養法則』に、
「先師三宝冥慮を期して」(歴代法主全書)
「先師の願既に満じ、今我が望み足れり」(同)
と述べられているように、御先師であらせられた日永上人の尽力なくして、三門の建立はあり得ませんでした。
 日永上人は道号を長然といい、大石寺の地元である上野の御出身です。上条の邑長である父・清五郎右衛門(浄信日養)と母(妙常日浄)の次男として、慶安三(一六五〇)年に誕生されました。(清家は第三十六世日堅上人、第四十八世日量上人の御生家)
 幼くして総本山第二十世日典上人のお弟子となられ、出家して修行に励まれました。その後、上総の細草檀林(千葉県大網白里市)で研鑚を積まれた日永上人は、後には能)化に昇進され、後進の育成にも当たられました。さらに退林後は、江戸下谷常在寺(現在の東京都豊島区・常在寺)や会津実成寺(福島県会津若松市)の住職として、檀信徒の教化に努められました。
 そして元禄五(一六九二)年、御年四十三歳の時、総本山第二十三世日啓上人より血脈相承を受けられ、第二十四世として御登座されました。
 御在職中には、「元禄の大改修」と呼ばれる御影堂の改修事業をはじめ、総本山の諸堂宇の管理・修復に努められました。さらに、六億万遍もの僧俗一同の唱題をもって「六万塔」を建立された他、蓮蔵坊を再興されました。
 この蓮蔵坊再興の折には、弟子の日寛上人(後の総本山第二十六世)を招聘し、御書を講義させたことが古記録に残っています。日永上人がいかに富士門流の教学研鑚に力を注がれていたのかが垣間見られます。
 このように、御在職十七年の長きにわたって大法興隆の指揮を執られた日永上人は、宝永五(一七〇八)年五十九歳の時、第二十五世日宥上人に唯授一人の血脈を相承されました。その後も七年もの月日を、御隠尊上人として血脈の不断に備えられながら、正徳五(一七一五)年二月二十四日、安祥として御遷化されました。
 日永上人の残された多くの功績は枚挙に暇がありませんが、特筆すべきものの一つに、元禄十年の御経蔵建立があります。
 御経蔵とは一切経を収めた建物のことで、現在は奉安堂東側に移転新築されています。一切経とは、仏教における経・律・論にわたる経典、さらにはそれらの論釈を総称したものです。
 その昔、日蓮大聖人様が駿河国富士下方岩本(静岡県富士市岩本)の実相寺の一切経を閲覧されて『立正安国論』の執筆に当たられたように、一切経は仏教の根本にして、大聖人様の御書の研鑚のためにも、また後世の竜象育成にも、必要不可欠です。
 そこで日永上人は膨大なる量の明本一切経を揃えて、御経蔵を建立されたのです。
 なお、御遺言により、日永上人の御尊骸は御経蔵の裏に埋葬されており、現在も御経蔵に縁された三人の御歴代上人と共に、四基の墓石が並んでいます。

第二十五世日宥上人

 日宥上人は、生国は定かではありませんが、寛文九(一六六九)年に出生されました。
 幼い時に京都在住の日衆師(後の常泉寺七代日顕贈上人)を師として出家得度され、道号を栄存と名乗られました。
 総本山第四十八世日量上人の『続家中抄』によりますと、日宥上人は三門建立を外護された天英院殿の猶子(兄弟の子、甥、姪などの近親者からの養子を指す)とされています。つまり、日宥上人はもともと近衛家の縁戚関係にあったと考えられ、その縁から、天英院殿が養母となられたものと推察されます。
 細草檀林に入られた日宥上人は修学研鑚を積まれ、後には檀林の化主を務められました。
 そして宝永五(一七〇八)年、四十歳の時、日永上人より唯授一人の血脈相承を受けられ、第二十五世の御法主上人となられました。
 また、この時には天英院殿よりお祝いとして、朱色の網代の輿や諸道具が贈られたと、古記録に記されています。
 さらに宝永七年の正月には、幕府より独礼席が免許されました。独礼席とは、将軍に単独で直接対面できる特権的地位のことで、数年来途絶えていたものが、天英院殿の特別な計らいによって復活したものです。
 そうした中、正徳二(一七一二)年の夏頃に家宣公と天英院殿からの寄進を受けたことにより、五年後の亨保二(一七一七)年に、御先師日永上人の時代からの悲願であった三門の建立がついに実現したのです。
 三門建立の大願を見事成し遂げられた日宥上人は、翌年の亨保三年三月、第二十六世日寛上人に血脈相承あそばされました。また同時に寿命坊を創建して住せられ、御隠尊上人という御立場で法の不断に備えられました。
 そして同十四年十二月二十八日、御遷化後の一切を御当職の第二十八世日詳上人に託され、僧俗が一心に御題目を唱える中、六十一歳で安祥として御遷化されました。