宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
三門―意義と歴史―【第1回】 
 
壮麗な佇まいと意義@

一、はじめに
 現在、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の慶祝記念事業として、総本山大石寺の三門の大改修工事が行われています。
 そこで今回から、三門について連載します。三門の威容、建立に至る経緯、三百年にわたる維持・修復についてを学んでいきます。

二、東海道随一
 三門の間口は約二十四メートル、奥行きは約十一メートル、高さは約二十二メートルあり、木造の朱塗りで、その雄荘美麗な佇まないと規模において、東海道随一の大門です。昭和四十一(一九六六)年、静岡県の有形文化財に指定されました。
 建築様式は、「五間三戸の二重門」です。「五間」とは正面の柱間が五つあり、「三戸」とは五間のうちの中央三間が通路となっている様式のことです。
 また、よく「楼門」という言葉を耳にしますが、楼門とは二階建ての門のうち、一階部分に屋根・庇を持たない門のことを言います。
 これと区別して、一階部分にも軒を有する門を「二重門」と言っています。二重門は、門の種別の中で最も格式がある建築様式で、大石寺の三門もこれに当たります。

三、大石寺諸門建立の歴史

 そもそも寺院における「門」とは、寺域と外部との境界に設置された出入り口を言います。
 享保二(一七一七)年、第二十五世日宥上人の代に三門が建立される以前、大石寺の墳内地の南面には、「総門」などが建立されていました。
 第十七世日精上人の『家中抄』(日蓮正宗聖典七四九n)によりますと、第十二世日鎮上人の代の大永二(一五二二)年に「総門」が建立されています。この総門は古来、黒塗りであることから「黒門」とも呼ばれてきました。
 また、天正年間(一五七三〜九二)に第十四世日主上人が筆録された『大石寺境内図』には、中央塔中の参道南側に「門」の名前が記されています。
 たびたび焼失の憂き目に遭った「総門」ですが、日精上人の代の寛永十五(一六三八)年に念願であった再建が叶うと、その後も第二十二世日俊上人や第二十六世日寛上人の代などにも再建が果たされています。
 なお現在の総門は、明治十三(一八八〇)年、第五十五世日布上人の代に再建・新築された記録が残っており、その後、度重なる修繕を経て、平成十年に総本山第六十七世日顕上人によって現在地に移されたものです。
 この他、総本山境内に建立された諸門として、寛永十五(一六三八)年に日精上人が建立された「二天門(中門)」、大坊(方丈)の門としての「表門(鬼門)」や「裏門」、さらに客殿の前には広宣流布の暁に開かれて勅使が通ると伝えられる「不開門」などがあります。
 このように総本山の各所には門が建立されていますが、その中でも御影堂の正面に位置し、中央塔中の入り口に凛とした姿で常に登山者を受け入れてくれるのが「三門」です。

四、三門建立の経緯

 三門は、江戸時代に第二十四世日永上人が「黄金七百両」を丹精あそばされた後、さらに日宥上人が「黄金二百両」を建立資金として用意され、正徳二(一七一二)年に三門建立を幕府に発願されたところから建立しました。
 そして、徳川六代将軍家宣公から富士山の大樹七十本、同正室であり発願主の天英院殿から黄金千二百粒の御供養がされたことが契機となり、待望の三門造立がいよいよ現実味を帯びてきました。
 江戸時代には、幕府の宗教統制により、仏教各宗は自由に寺院や堂字を建立することができませんでした。そのため資材があっても、幕府から工事の許可が下りなくては着工できません。
 そこで古来、大石寺に建立されていた「山門再興」の形をとることで、ようやく幕府からの許可を得ることができたのです。
 これは江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』にも、
「(正徳二年五月)三十日駿河国富士郡大石寺山門再興によって。主僧日宥願ひのまゝに。富士山の栂?以下の雑木伐取事をゆるさる」(徳川実紀第五編 二二八n)
と、「山門再興」と記されており、三門着工の許可を得るために苦心されたことがうかがえます。
 この他、江戸三箇寺(常在寺・常泉寺・妙縁寺)並びに全国有縁の僧俗からの尊い浄財と合力によって、いよいよ三門建立の運びとなったのです。
 そして正徳二年の御供養よりおよそ六年もの歳月を経た、享保二(一七一七)年八月二十二日、日宥上人によって、ついに三門が建立されました。この時の感慨を日宥上人の『三門供養法則』には、
「悦ばしきかな 征夷大将軍仁徳高ふして 富山の宝樹を賜ひ 同君御台所恩恵厚ふして 麗水の黄金を寄せ玉へり 然して後僧徒懇志を運んで 猶亦身命を愛せず 檀越信力を励して且更に頭目を惜しむこと無し」(歴代法主全書)
と、征夷大将軍である徳川家宣公、同御台所・天英院殿、そして有縁の僧俗の強盛なる信心があってこそ、三門建立が成就できたと深い謝意を表わされ、また二階部分には日宥上人が御認めになった常住御本尊が安置されました。
 三門の二階部分に安置された御本尊の御宝前には、徳川家宣公と天英院殿の広大なる功績を賞して、徳川家の葵紋と天英院殿の生家である近衛家の牡丹紋が大きく装飾(彫刻)されています。
 この葵紋と牡丹紋は、平成二十九年一月十六日に修復完成法要を奉修した大石寺五重塔の相輪露盤や第一層の装飾にも見られます。
 この両紋の燦然ときらめく姿は、天英院殿の外護の赤誠と正法広布への篤い思い、さらには徳川家・近衛家の仏縁が三門建立に繋がったことを、今もなお雄弁に物語っているものです。
 次回は「壮麗な仔まいと意義A」についてご紹介いたします。