宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
五重塔−意義と歴史 E
 
 五重塔

 今回の『宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年』では、『五重塔―意義と歴史―』の第六回目を掲載します。
 現在、総本山大石寺では宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年慶祝記念局の記念事業の一環として五重塔の修復工事が、十二月末日の完成予定をめざし進められています。今回は、五重塔の建立大施主である板倉勝澄公について掲載します。
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 板倉勝澄公

 慈悲深い藩主

 板倉勝澄公は享保四(一七一九)年、伊勢(三重県〕亀山藩主・板倉重治の長男として誕生しました。
 板倉家は三河地方〔愛知県東部)の出身で、徳川家康の重臣として京都所司代等を歴任した板倉勝重を始祖とする譜代大名であり、勝澄はその宗家の七代目に当たります。
 享保九(一七二四〕年、父・重治が二十八歳の若さで急逝したため、勝澄が六歳で伊勢亀山藩主となりました。
 元文五(一七四〇)年には、伊勢亀山城下で大火災が起こり、市街地一帯が類焼して、領民の生活に著しい損害を及ぼしました。この時、二十二歳の青年藩主であった勝澄は、領民の各家に金銭を貸与し、復旧を迅速に進めました。その上、勝澄が利息はもとより元金までも返済不要としたことから、領民はたいへん喜び、感謝したと言います。
 後年、勝澄が備中(岡山県〕松山城へと移封する際には、領民は別れを惜しみ、その恩を忘れないように毎年、板倉家萬歳を祈ることにし、それが百数十年にわたって続けられたという記録が残されています。

 病気と入信

 勝澄は若い頃より病気がちであったようで、第八代将軍・徳川吉宗より薬を賜ったこともありました。
 寛保二(一七四二)年二月五重塔発願主である天英院殿の第一周忌の法会が行われた際、勝澄は幕命により警護の任に当たりました。しかし、この年、勝澄は病に倒れたために領国へ帰城できず、江戸の藩邸で養生しなければなりませんでした。
 その後も体調は思わしくなかったようで、勝澄の状況を重く見た幕府が、延享元(一七四四)年、備中松山城への移封を命じるほどでした。
 現在、勝澄から総本山第三十一世日因上人に宛てられた書状は現存しませんが、日因上人より勝澄に宛てられた書状が多数、残っています。
 その中で最も古いものは寛保三(一七四三)年十月二十八日の書状で、そこには総本山第三十世日忠上人の教化に浴していたことや、同年八月に勝澄の四女・亀姫が常泉寺(東京都墨田区〕で御授戒を受けたことなどが記載されています。
 それらの内容から、おそらく勝澄は、この前年頃に入信したと考えられます。

 五重塔建立御供養
 勝澄は延享元(一七四四)年四月、自国上人より総本山第二十三世日啓上人の御本尊を授与され、病身の中も熱心に、信行に励みました。
 すると翌年には、大功徳を得て病状が快復し、初めて江戸から備中松山城へと入ることができるまでになりました。この折、勝澄は城下に寿宝堂という持仏堂を建立しています。
 そしてこの年、日因上人より大石寺五重塔建立のことを伺った勝澄は、移封直後で財政が逼迫する中、千両もの大金を御供養されました。これは、現在で言えば、およそ一億円もの大金に当たります。
 そして、翌年から三年にわたり三種の勤行を修して大願成就を祈念すると共に、甲斐の有明寺〔山梨県身延町)に石塔と三百両を寄進したり、奥州の上行寺(宮城県登米市)と妙教寺(同県栗原市)所蔵御本尊を修復するなど、厚い外護もなしたのでした。
そして、寛延二(一七四九)年六月、待望の大石寺五重塔が完成しました。完成の報を耳にした勝澄の喜びは、いかばかりであったでしょうか。



 信行錬磨と法統相続

 五重塔完成翌々年の寛延四(一七五一)年には、大石寺へ金重銘入小刀等を御供養すると共に、山内に慈雲坊を寄進しています。
 そしてこの年、勝澄は宿病を理由に家督を長男・勝武に譲り、自らは隠居して剃髪し、源承と名を改めました。
 隠居した勝澄は、以前にも増して信行に励み、法統相続にも力を注ぎました。
 勝澄の三男で第三代藩主の板倉勝従が安永四(一七七五)年、総本山第三十六世日堅上人の代に、真鍮製の大燭台を寄進しているほか、夭折した六人の子女が常泉寺に葬られたことは、家中に正法が弘まっていたことを示しています。
 さらに、五重塔の建立から十六年後の明和二(一七六五)年六月には、再度の五重塔建立御供養千両をはじめ、合計千八百両もの寄進をしています。
 そして明和六年五月三日、勝澄は五十一歳で逝去し、茶毘に付されました。戒名は「慈雲院殿嘉誠源承日明大居士」と賜りました。
 板倉宗家の正墓は愛知県にある曹洞宗寺院に築かれることが通例となっていましたが、勝澄の墓は、本人の強い希望により、大石寺に築かれました。



 勝燈は生来、病弱でありながら、正法を信じ、自行化他にわたり精進する中で、体調を快復させ、さらに十二男九女の子宝にも恵まれました。そしてその子孫は、その後、廃藩置県に至るまで備中松山藩を安泰に引き継ぐことができたのです。
 勝澄の生涯は、正法を求めて純粋に信仰をする者は、自らの寿命を長らえ、子孫も繁栄できることを実証した、尊い一生でありました。
 現代の法華講衆も、先達の立派な信仰を受け継ぎ、折伏に、育成に、また寺院の外護にと精進してまいりましょう。