宗祖日蓮大聖人御聖誕生800年
大 白 法 より
五重塔−意義と歴史 A
 
 現在、総本山では宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年を記念して、五重塔の修復工事が進められています。
 仏塔の歴史の中で、大石寺のような木造五重の建築様式は日本にしか見られないものです。
 
仏塔の起源
 そもそも、仏教における塔の起源は、釈尊の在世にまでさかのぼります。
 十誦律や摩訶僧祇律には、釈尊が自ら塔を造立したり、また他の者に塔を造立することを許可した記述が見られ、また、その塔の形式は経典によって様々に説かれています。
 また釈尊の滅後、その遺体は荼毘に付されたのち、八つの部族によって分けられ、それぞれ仏塔に納めて祀られました。
 そして仏滅後二百年頃、アショーカ王が仏塔から遺骨(舎利)を集め、それを細かく分けて、領内に八万四千の仏塔を建立しました。
 現在、世界遺産に指定されている、インド中部のサンチーにある大仏塔(ストゥーパ)は、この時に建てられた仏塔を、さらに大きく覆ったものとされます。

仏塔の伝播
 アショーカ王以後、仏教が広い地域に弘まるのに伴って、仏塔信仰も広く伝播していきました。
 仏教の伝播には、主に二つの流れがあります。一つは、西北インドからネパールや中央アジアに渡り、さらにシルクロードを経て中国へと至った北方ルート(北伝)であり、もう一つは、南インドからスリランカ、そしてミャンマーやタイ、カンボジアなどの東南アジアを経て中国に至った南方ルート(南伝)です。
 仏塔が伝えられる過程で、各地域の文化等の影響を受けて、形状などが少しずつ変化していきました。
 そして、中国・朝鮮を経由して、日本にも仏塔が伝えられたのです。

日本の仏塔
 日本には、六世紀の飛鳥時代に、朝鮮半島の百済国から仏教が公伝され、仏像や経巻、仏教建築などがもたらされました。
 『日本書紀』には、敏達天皇十四(五八五)年二月に、蘇我馬子が塔を建てたという記述がありますので、仏教伝来後、早い時点で諸堂と共に塔も造立されたことが伺えます。
 奈良時代には、東大寺の大仏を造ったことで有名な聖武天皇が、国ごとに国分寺を建て、そこに七重塔を建立するように命じています。
 その他にも、貴族や地方豪族等によって、各地に多くの寺塔が建立されました。
 特に平安時代には、白河天皇が二十一基もの塔を造ったのをはじめ、末法思想の流行もあって、数多くの塔が造立されました。
 ある公卿の日記には、わずか三日間で百二十八塔を巡礼したという記述がありますので、京の都だけでも相当数の塔が建てられていたのでしょう。
 このように、仏教の隆盛は仏塔の造立にも深く結びついていったのです。

受け継がれているもの
 さて仏塔は、インドで発祥して日本に伝わりましたが、その形状は、一見すると全く異なるように思えます。しかし、インドと日本の仏塔の間には、形状の上においても、大きな関連があるのです。
 そもそも、サンチーの大仏塔は玉垣が巡らされた「基壇」の上に、本体となる、お椀を伏せたような形の「覆鉢(伏鉢)」があり、その頂上部に箱形の「平頭が置かれ、その上に日よけに当たる「傘蓋」が掛けられています。
 これに対して、日本の塔には五重や三重、七重など、様々な様式がありますが、それらの屋根の上には皆、相輪が掲げられています。
 大石寺五重塔の相輪を見ると、その形状は、下から「露盤」「伏鉢」「請花」が重ねられており、これらはインドの大仏塔の基壇・覆鉢・平頭に当たります。
 そして、その上にある「宝輪(加輪)」「水煙」「竜車」「宝珠」は、大仏塔の傘蓋に当たります。
 このように、日本の塔においても相輪部分に、インドにおける形式の残影を見ることができるのです。
 五重や七重といった塔身部分は、相輪を掲げ、支えるためのものであり、その形状の違いは建立意図や装飾の差異と言うことができます。
 長い歴史の中で、仏塔の建築様式は大きく変わってきましたが、そこには変わらず、脈々と受け継がれているものがあるのです。