立正安国論正義顕揚750年
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− J
 素屋根の解体もほぼ終わり、屋根に葺かれた真新しい銅板の輝きと共に、御影堂がいよいよその偉容を私たちの眼前に現わした。
 これまで十回にわたって連載してきた『御影堂―荘厳なる意義と歴史―』も終盤を迎え、今回はいよいよ昭和における改修を、その当時の時代背景や総本山境内の維持・荘厳と共に紹介する。十一月の落慶大法要まで約九カ月。その偉容に接するにふさわしい信行をもって、記念の法要に臨もう
昭和における総本山荘厳と御影堂修築
 明治時代以降、政府は神道の国教化政策を進め、時代を経るごとにその統制は強まっていきました。国際社会においても各国による目紛しい主導権争いが繰り広げられ、日本は日清・日露戦争の勝利以降、軍国主義一色となり、この風潮は第二次世界大戦へと続いていきます。
 このような趨勢は人心の荒廃を招き、不安定な社会情勢は増大の一途を辿りました。
 未曽有の国難とも言うべき時代を迎え、価値観の定まらない多難な世相の渦中にあっても、本宗では時の御法主上人猊下の陣頭指揮のもと、挙宗一致の折伏戦が進められていきました。
 他宗の多くの寺院が廃寺となる最中、総本山大石寺では本門戒壇の大霊場としての格式と威容を維持すべく、適宜、境内の荘厳に努められた御先師方の御事績が拝せられ、今なお色褪せることなく燦々と輝きを放っています。
 満州事変が起きた昭和六(一九三一)年、総本山第六十世日開上人の代には、大聖人第六百五十遠忌の記念事業として客殿の修築や三門の大改修が施され、さらにはこの時に御影堂安置の御影像の御衣替も行われています。
 また同十八(一九四三)年には、当時、東京本因妙講のご信徒で東京池袋・法道院草創期に多大な貢献を果たした「内山ワカ」女史の御供養によって、御影堂正面の石段が補修されました。階段七段目下部には現在でも寄進主としてお名前が刻まれています。
 さて、昭和二十(一九四五)年、日本はポツダム宣言を受諾し、天皇がラジオ放送で終戦を全国民に告げ、第二次世界大戦はようやく集結しました。
 大本営発表のもと、「神風」を盲信し、最後の最後まで連合国に抵抗を続け、最終的に日本は原爆などの甚大な被害を受け、一国謗法が招いた現実に誰もが絶望の淵に立たされました。
 総本山も戦前戦後を通して大きな打撃を受け、特に終戦の翌年に当たる昭和二十一(一九四六)年には、GHQの「農地解放」政策により、大石寺は全国各宗派寺院の中で、最大規模の約二十七万坪の農地を失いました。しかし、本宗はこの難局を好機とするかのごとく、逆境をものともせず、立正安国を掲げた真の復興に励み、宗勢は大きな飛躍を遂げるに至ります。
 一国全土が悲壮感に覆われ、物資も事欠く状況下にありながらも、当時のご信徒による赤誠の御供養によって総本山の境内の荘厳は弛まず続いていきました。その代表的な事業としては、
 ・昭和二十三(一九四八)年十一月、第六十四世日昇上人代、客殿・六壺の新築。
 ・同二十八(一九五三)年、五重塔の修復。
 ・同二十九(一九五四)年、総門の修築。
 ・同三十(一九五五)年、奉安殿の建立。
 ・同三十三(一九五八)年、第六十五世日淳上人の代、大講堂の建立。
などが挙げられます。
 また同三十一(一九五六)年十月には、第六十五世日淳上人が御登座された際、代替の記念として、戦時中の供出によって失われていた御影堂正面の青蓮華鉢が再鋳造され、併せて表裏の両向拝に天水鉢が新たに設置されました。
 さらに、今回の大改修における調査によって判明した事柄でもありますが、昭和三十四(一九五九)年八月、大型台風によって御影堂周辺の大木が倒れ、北面の西側部分に深刻な被害が生じたようです。この際、迅速に復旧作業が進められ、破損部分の修理と共に部材を取り替えて組み直すといった補強を施し、さらには屋根の葺き替え、外部の塗装の塗り替えも同時に行われています。
日達上人代の大改修
 昭和三十年代、日本は戦後復興期から高度成長期に突入し、見事な復興を遂げ、世界有数の経済大国へと成長しました。
 この頃、本宗においても宗門史上類を見ない広布進展の相が現われ、爆発的な折伏によってご信徒が急増し、全国各地に多くの正宗寺院が建立されていきました。
 新たな時代が到来し、さらなる躍進を必要とした宗勢にあって、昭和三十四(一九五九)年、日淳上人の跡を承継され、第六十六世日達上人が御登産あそばされました。
 日達上人は一宗を董される傍ら、大坊をはじめとする諸堂宇の整備修築に着手され、同三十九(一九六四)年四月には大客殿、同四十七年十月には正本堂を建立されるなど、登山参詣者の利便性を配慮され、次々と境内の施設拡充を図られました。
 また先に五重塔が国の重要文化財に認可されたことに続き、昭和四十一(一九六六)年、御影堂及び御宮殿(厨子)は三門と共に静岡県有形文化財に指定されました。法灯連綿として築き上げられた御影堂が歴史的な文化遺産としても、後世に長く保存されていくべき由緒深き建造物であることが認められたのです。
 そして、寛永九(一六三二)年の創建から約三百四十年後、日応上人代の大改修から七十年が経過した昭和四十六(一九七一)年、日達上人によって御影堂の大改修が行われました。大がかりな修築としては六度目の改修と考えられます。
 この大改修は大聖人御聖誕七百五十年の記念事業の一環として、着工から約八カ月間の工期を要しました。文化財保護法等の規定に基づき、近代的な工法を取り入れた様々な補修工事が行われました。
 記録によると改修の概要は、
 ・鋼板茸の屋根の茸き替え。
 ・屋根、向拝、軒などに生じていた破損・腐朽部分の補修。
 ・堂内の壁画や欄間の彫刻など、全面的な塗り直し。
 ・御宮殿の彩色塗装を創建時に復元。
 ・内陣円柱の金箔張り替え。
 ・外陣と後陣に畳を敷き詰める。
 ・二天門、鬼門の塗り替え。
といった改修が行われました。工期は計画通り順調に進み、昭和四十六年十一月二十日、日達上人の大導師のもと御影堂大改修落慶法要が約千三百名の参列者をもって盛大に奉修されています。
 日達上人が御影堂大改修落慶法要の砌、奉読された『慶讃文』の中で、
 「誠に当堂建立当時の姿を再現し見ん人の眼を眩らまし心を惑はす美観をなせり(中略)我等は宗祖の正当日には参堂して如在の礼奠怠懈せず只管に広宣流布を欣求するなり故に此の御影堂を昔のまま永く後に伝へんと欲するなり」
と御指南されているように、この大改修は当時の科学技術の粋を結集し、可能な限り創建時の姿に復元することをめざした工事であったことが伺えます。
訂正のお知らせ

 本紙八五三号掲載の『御影堂―尊厳なる意義と歴史―I』において、日応上人の誕生された場所の現在の地名が「山梨県甲州市」となっているのは、正しくは「山梨市」でした。
 謹んで訂正いたします。