立正安国論正義顕揚750年
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− I
 御影堂大改修工事は、十一月の落慶大法要奉修をめざして、現在は素屋根の解体工事と共に内装工事が行われている。 
 そこで今回の『御影堂―荘厳なる意義と歴史―』では、時代が大変化する明治時代に本宗が歩んだ歴史と共に、総本山第五十六世日応上人によって行われた大改修について紹介する。前回(平成二十四年三月一日号掲載)は、江戸時代の中期以降に境内整備と共に行われた御影堂の改修について学んだ。
明治時代における改修
−日応上人の大改修−
 現在の御影堂が建立された寛永九(一六三二)年より約二百七十年後、また安政年間に行われた総本山第五十二世日霑上人の改修から四十五年後の明治三十五(一九〇二)年、第五十六世日応上人によって大規模な改修が行われました。
 この御影堂改修は、「富士派分離独立」「御料林払い下げ」と並び、日応上人の御在職中における三大事業の一つに数えられ、また、当時の広布進展においても大きな歴史的意義が拝せられます。
−廃仏毀釈の世相−
 徳川幕府が終焉を迎え、明治維新によって樹立した新政府は、文明開化を合い言葉として様々な面で改革をもたらしました。
 この中で宗教的な国民統制手段として、それまで幕府が仏教寺院を利用して政策の実行を図ったのに対し、明治政府は天皇の神格化を進め、国家神道として利用し、神道国教化政策の道を進みます。
 これにより、仏教を排斥する動きが活発となり、いわゆる「廃仏毀釈運動」が全国各地で巻き起こり、宗派を問わず多くの仏教寺院が破壊されていきました。
 たとえば、奈良の興福寺では僧侶全員が還俗の上、隣の春日神社の神官になったり、富山では領内の千六百三十五ほどあった寺を六寺までしようとする凄まじい風潮をもたらし、また伊勢地方でも、百九十六カ寺が廃寺にされています。
 本宗にもその影響は波及し、福島県いわき市の妙法寺では、暴徒によって寺院が破壊される事件も起こったほどです。
−各派との合同問題−
 こうした風潮の中、明治政府は明治五(一八七二)年に神祇省を廃して教部省を設置し、官布告によって仏教各派を天台宗・真言宗・浄土宗・禅宗・浄土真宗・日蓮宗・時宗の七宗に強制的に属させ、一宗一管長制、つまり各宗に管長を一名置き、宗務を管理統制するという制度が定められました。
 この発令によって、富士門流が日蓮系各派と合同されてしまうことを危倶された総本山第五十四世日胤上人は、同六年一月より数度にわたって教部省に「大石寺一本寺独立願」を提出されます。
 その甲斐あってか、翌七年には、教義の違いから日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に二分されます。
 しかし同九年二月に至り、身延久遠寺などの諸寺(池上本門寺・中山法華経寺・越後本成寺・京都妙顕寺・京都本圀寺・京都妙満寺)が「日蓮宗」と称したので、大石寺はこれに対抗してやむなく、日興上人の流れを汲む北山本門寺・京都要法寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺(以上、興門派八山)と共に「日蓮宗興門派」と称することになりました。
 そして同年四月、日胤上人は教部省に対し、教義信条の上から大石寺が正統である理由を説いて「興門派」の総本寺として大石寺に管長を任命するよう懇願し、さらに翌月には興門派からの分離独立を申請しましたが、これらは認められず、興門派管長は八山が交代で勤める形を余儀なくされました。
 さらに政府は明治十年、教部省を廃して内務省に社寺局を置くなど、神道と仏教を利用しての国民教化政策を図りました。
 総本山第五十五世日布上人は、この不本意な状態に対し、大石寺分離独立を内務省に出願され、さらに同十七年十月には、血脈付法の大石寺法主を管長に選定すべきであるとの意見書を八山会議に提出し、総本寺としての立場を主張されています。
 同二十二年二月に発令された「大日本帝国憲法」では、天皇と神道を中心とした思想のもとで信教の自由が一応は認められるようになりましたが、「国家神道」を中心とする方針は次第に強められ、その流れは明治・大正から昭和二十(一九四五)年の第二次大戦の終わりまで続きます。
 このような異常な思想が蔓延し、年を追うごとに国家権力の弾圧が厳しくなる中、日応上人によって首都・東京を中心とした大折伏戦が展開されます。
−総本山第五十六世日応上人−
 日応上人は、嘉永元(一八四八)年十一月十五日、山梨県山梨郡加納岩村(現在の山梨県甲州市)に誕生され、安政五(一八五八)年日霑上人の徒弟となられました。
 以降、細草檀林に修学、その後、三春・法華寺の住職就任を端緒に東北地方を巡化され、明治十七(一八八四)年には福島県信夫郡腰浜村(現在の福島県福島市)に広布寺を建立されるなど、奥州広布に多大なる進展をもたらされました。
 そして明治十九年十月、大石寺第三十八代学頭となり、同二十二年五月二十一日、日布上人から御相承を受け、第五十六世の法灯を継がれました。
 一方、目まぐるしい日蓮門下の動向の中で、日応上人は政府に対して大石寺の独立を断固主張し、同二十九年六月より数度にわたって分離を申請されるなど、御登座以前より引き続き、独立分離に向けて東奔西走され、大石寺こそ大聖人・日興上人以来の血脈を承継する正統なる総本山であることを主張し続けられました。
 このような地道な御事績が功を奏し、同三十三(一九〇〇)年九月十八日、ついに積年の尽力が実り、興門派からの分離独立が認可されて「日蓮宗富士派」と公称することができ、同年十一月四日、大石寺御影堂において「独立発表式」が挙行されました。後の「日蓮正宗」改称に至る道筋に大きく貢献されています。
 この分離独立問題に一つの収束を見た後、本格的に着手されたのが大規模な御影堂の改修でした。
 さて、日応上人は、『弁惑観心抄』をはじめとする多くの著作を残されていることでも有名です。その内容には御相伝に基づく甚深なる御法門が披瀝されており、また他門に対しても強く本宗の正統性を主張された尊貴なる御振る舞いが拝察されます。同四十一年総本山第五十七世日正上人に法を付嘱された後も、精力的に布教に励まれ、休む暇なく全国を行脚されました。
 明治四十二年には後の白蓮院を設立、また大正十(一九二一)年三月には神奈川県東神奈川鳥越に神奈川教会を設立し、蓮葉庵より移られています。特に、
 「深川に蛸一匹の浮き沈み」の御歌でも知られますが、現在の池袋・法道院の前身である「法道会」を設立し、首都・東京の弘教に尽力され、今日の隆盛の基礎を築かれました。日応上人は大正十一年六月十五日、東神奈川鳥越の神奈川教会で七十五歳で御遷化あそばされました。
−改修の経過−
 日応上人代以前の御影堂は檜皮葺(檜の樹皮を用いて施工した屋根)であったようですが、年月の経過から雨漏りや腐朽がひどく、修理の必要に迫られた状況であったようです。
 そのため、日応上人は、明治二十五年頃より屋根を銅瓦葺にするための準備に取りかかっています。
 しかし、全面修理の必要を感じられ、同二十九年七月、福島県石城郡(福島県いわき市)から呼びよせた宮大工・青木守高氏に破損状況を調査させたところ、表向拝、軒先は腐朽、西の端と裏向拝の半分は全部落ち、斗組、肘木はすべて修理を要するというような状態であることが判明します。
 日応上人は大改修の意志を固められ、同三十年十月、「御影堂営繕事務所」を設置、翌三十一年八月、まず屋根の銅瓦葺に着手、そして同三十三年二月より本格的な大改修が開始されました。
 この改修工事と同時に、同三十二年十月には御影堂御安置の大聖人御影の御衣替(修築)が行われています(諸記録一―七)。
 さて、改修するための資金が莫大な金額であったために、日応上人は同三十四年四月十二日から六月二十二日まで、勧募のため愛知・石川・京都・大阪・兵庫・福岡の各地方を御巡教されています。
 そして工程は順調に進み、同三十五年四月二十二日より三日間、盛大な「御影堂営繕落慶法要」が奉修されました。
 日応上人代の改修によって屋根が銅瓦茸になると共に「向拝」が大きく形を変えたのが特徴的です。すなわち、現在の御影堂の風貌は日応上人代の改修によって整えられたものです。