立正安国論正義顕揚750年
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− H
 御影堂大改修工事もいよいよ四月に上棟式が行われる。昨年末には特別御供養も無事終了し、今年の暮れからは素屋根も順次外されていき、来年十月完成、十一月に落慶大法要の予定で進んでいる。
 そこで今回の『御影堂―荘厳なる意義と歴史―』では、江戸時代中期から幕末にかけての、総本山及び御影堂の変化について触れていく。前回(平成二十三年十一月一日号掲載)は江戸時代の前・中期に行われた御影堂及びその周囲を荘厳にした事業、そこで法華講員が果たした役割や御供養の精神について学んだ。
江戸時代における御影堂荘厳 A
 ―江戸中期以降の改修―

  江戸中期以降における
  伽藍拡充と境内整備

 第二十四世日永上人以降、特に江戸中期に飛躍的な発展がなされた総本山では、その後も御歴代上人によって、本門戒壇の大霊場の名にふさわしい境内にするために、御影堂を中心として、次々に堂宇が建立されました。
 その主なものを挙げると、
・第二十五世日宥上人の代、正徳二(一七一二)年には、天英院殿の尽力により幕府から黄金千二百粒・富士山の巨木七十本の寄進を受け、これに日永上人・日宥上人の九百両と合わせて、五年後の享保二(一七一七)年八月に、現在の「三門」が建立されました。
・享保三年に登座された第二十六世日寛上人は、梵鐘の改鋳・青蓮鉢の造立をされました。
・また第二十七世日養上人の代、享保八年には、客殿が再建されています。
・さらに享保九年には日寛上人が再登座され、石之坊を創建、同十一年には常唱堂が建立されました。
 また日寛上人は、五重塔の建立基金として五十両、永代の基金として二百両を残されました。この五重塔は、その後、五代にわたる御歴代上人の丹誠と備中(岡山県)松山城主・板倉勝澄公らのご信徒の御供養により、寛延二(一七四九)年、第三十一世日因上人の代に完成しています。
 一方、境内堂宇の拡充と平行して既成堂宇についても随時修理が施されていきました。
 総本山文書に見られる御事績としては、第三十七世日ソ上人、第四十三世日相上人、第四十六世日調上人により整備が行われており、これらの御歴代上人と当時の僧俗の尽力によって総本山の威風が保たれました。
 因みにこの時代の御影堂に関する事柄については、第三十世日忠上人代に屋根の葺替、第三十五世日穏上人代に修復工事が行われた記録が残されています。
日量上人・日荘上人代の境内整備

 江戸後期の大規模な境内整備として、大聖人第五百五十遠忌を期して行われた第四十八世日量上人と第四十九世日荘上人による諸堂宇の修復が挙げられます。
 第四十九世日荘上人代の文政十(一八二七)年春、御隠尊であられた第四十八世日量上人は諸堂宇修復の勧化のために地方に御下向されました。
 当時、一宗を董され、総本山にあって整備の指揮を執られていた日荘上人でしたが、天保元(一八三〇)年春、江戸へ出府するために御下向された最中に御遷化あそばされました。
 この事態を受けて日量上人が再住、一連の事業を引き継ぎ、完成に向けて御尽力あそばされました。
 これについては日量上人御自らが著された『続家中抄』に、
 「天保元\[戊寅\]年五月荘師江戸に於いて遷化あり、之れに依って六月二十四日方丈に再住す、諸堂舎残らず修覆す、翌二\[辛卯\]年八月中旬先例に任せ、一七日宗祖第五百五十御遠忌大法会執行す、江戸諸講中より寄進物勝げて計うべからず、仏前の荘厳心目を光輝し遠近の男女貴賤群参す、諸商集会し其のにぎにぎしき事古今未曽有なり」(日蓮正宗聖典 七九八n)と仰せられています。
 御影堂の修復に関する詳細までは記されていませんが、この他の記録から当然境内整備に当たって御影堂も改修なされたことが拝せられます。
  日霑上人代の改修
 世は幕末の動乱期、ペリーが軍艦を率いて浦賀に再渡した嘉永七(一八五四)年十一月四日、日本に未曽有の大地震が襲います。いわゆる「安政の大地震」(安政南海地震)です。この地震は、紀伊半島南端を震源とするマグニチュード(M)8・4の巨大地震で、広い地域に甚大な被害をもたらし、特に東海地方沿岸各地は壊滅的被害を被りました。
 この約三十二時間前に発生した安政東海地震と共に被害があまりにも酷かったために、これを契機として募永から安政に改められたほどです。
 現在の富士地方に現存する記録には、地震によってたくさんの地割れが起こり、倒壊・傾斜する家屋が続出、用水路なども倒壊した光景が記されています。
 富士南麓に位置する総本山もその例外ではなく、多くの諸堂宇に影響がありました。この時の様子について『日霑上人伝』には、
 「其の年(注※嘉永七年)の十一月四日辰の剋、大地震動し御堂傾斜六尺余、柱数本摧け、方丈塔中及び諸堂宇一も頽落破損に至らざるはなく就中鐘楼は全覆し鼓楼は傾き倒れ山内の石垣、墓中の石碑一も覆倒せざるなく実に言語道断の形勢たり」(日霑上人伝 三n)
との甚大な被害状況を伝えています。
 この震災により御影堂においては「六尺余」(約一・八メートル)ほど「傾斜」し、また「柱」が数本砕ける被害が確認されます。
 当時の御法主上人は前年に御登座あそばされた第五十二世日霑上人です。『日霑上人伝』に、
 「是に於いて遽に土方数十人、木挽、大工、石工等二百余人を一山内に分配し其騒動大方ならず」(同n)
とあるように、日霑上人は世が混乱に陥る中、迅速に対処され、境内の復興に当たられています。
 その後も不安定な世情から起こる種々の問題に対処される一方で、他の堂宇と共に御影堂の修築を進められ、三年後の安政四(一八五七)年に完了し、一応の落成に際して御代替の虫払大法会を奉修されています。