立正安国論正義顕揚750年
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− G
 これまでの『御影堂』 ―尊厳なる意義と歴史―は、御影堂が、御開山日興上人によって創建され、古来、大石寺の象徴として中心堂宇の役割を果たしたことや、現在の御影堂が総本山第十七世日精上人の時に再建造営されたことなどの、歴史の経緯について七回にわたって掲載してきた。
 今回は、江戸時代に法華講員が石灯籠や石段などをもって御影堂を荘厳したことを、当時の資料や子孫のお話から明らかにし、その御供養の精神についても述べてみたい。
江戸時代における御影堂荘厳 @
 現在の御影堂は寛永九(一六三二)年、総本山第十七世日精上人の代に再建された建物であり、その後、第二十四世日永上人代の元禄十三(一七〇〇)年の大改修を経て、今日見られるような尊容となりました。今回は江戸時代における御影堂の荘厳について、当時のご信徒が残された輝かしい足跡の一端を辿りたいと思います。

 加茂氏による石段造営
 寛永九年の御影堂新築以降、鼓楼、鐘楼、二天門など、御影堂に付随した意義を持つ建造物が建立され、さらに年を追うごとに御影堂周辺の整備が進められていきました。
 第二十二世日俊上人の『説法』には、
 「石壇造営ノ披露、施主的場村十左衛門ナリ、施主宝前ノ高下不平ニシテ参詣労苦ナルヲ悲テ此度石壇ヲ造り道路ヲ平等ニシテ参詣修行成リ易ク致サレ御座ル、世間往来ノ路橋ヲ作ルサエ功徳無辺ナリ、況ヤ仏前参詣ノ路ヲヤ」
とあります。すなわち、日俊上人代の貞享三(一六八六)年、御影堂前の階段および石畳が新設されたことが記されています。当時は現在の位置に御影堂が建立されてより約五十年後に当たりますが、御影堂前の石段はおそらくこの時に初めて築かれたのではないかと考えられます。
 境内の中心堂宇である御影堂には、多くの僧俗が参集したことが容易に推察されますが、参道から御影堂に至る手前の場所に生じていた高低差は参詣者を悩ませていたことでしょう。こういった不便を解消し、また大聖人様の御影在す御堂を荘厳すべく篤信のご信徒が浄財を御供養されました。(現在の御影堂前の階段は、昭和六年の御影堂改修の折に当時、東京本因妙講のご信徒「内山ワカ」女史の御供養によって補修されたもので、階段下部には寄進主として名前が刻まれています)
 さて、ここに登場する「的場村十左衛門」とは総本山近郊の的場村(現在の富士宮市上条)の地主であった「賀(加)茂十左衛門」のことで、当時、物心両面にわたって総本山を篤く外護されたご信徒の一人です。そのほか同年六月に造立された御影宝前の西側の石灯籠も当人による御供養です。
 石灯籠の御開眼の際に日俊上人が御説法をされた講本が残っております。それによると、この石灯籠は十左衛門がご両親の三十三回忌の折に、三宝供養と菩提回向の志をもって造立寄進した経緯が記されています。
 この中で御影堂前の石灯籠、つまり仏様の前を照らす灯明が持つ甚深の意義とその広大なる功徳を説かれ、十左衛門の純粋な信心による御供養を讃歎されています。
 的場の加茂家には御歴代上人の御本尊が今日まで複数護持されていますが、特に総本山第三十六世日堅上人、第五十六世日応上人の御本尊が御影堂の修理・営繕における勲功に対して授与された御本尊であることが脇書に明記されており、当家が代を重ねながらも御影堂の維持に大きく寄与した事実があります。
 的場の加茂家をはじめ加茂家の総本山外護は御影堂に止まらず、江戸時代の大石寺文書には加茂姓を持つ人名が散見されます。また大石寺墓地にも加茂家が大半を占める一区画があるように、功徳の実証の一つとして、今に繋がる法統相続の姿が顕著です。
 現在の的場の加茂家にも総本山外護の精神は引き継がれており、子孫(現当主は総本山塔中本住坊信徒・加茂光也氏)はご家族共々法華講員として信心に励まれています。


 井出家の総本山外護
 次に「加茂十左衛門」造立の対となる東側の石灯籠の建立主として「上井出村・井出兵左衛門後家、今伝衛門也」の名前が見えます。
 この「井出兵左衛門」こそ、総本山の歴史をひもとく上で欠かせない家柄であり、代々にわたって要職を務め、多大なる貢献を果たした井出家のご先祖の一人です。
 多くの方がご承知のことと思いますが、井出家は総本山より西北に三キロほど離れた場所(現在の富士宮市狩宿)に位置する鎌倉時代より続く名家です。
 当家は鎌倉時代の建久四(一一九三)年、富士に巻狩りに赴いた源頼朝がこの地に陣屋を置いたとの由緒を持っています。その際、頼朝が邸内の桜の前で馬から下り、馬をこの桜の幹にくくりつけたことから、この桜を「下馬楼」、または「駒止めの桜」と呼び、地元のみならず、全国的な名跡として親しまれ、昭和二十七年には国指定特別天然記念物にも指定されています。
 代々の当主は当地域の発展に尽くされると共に、菩提寺である総本山に大きな勲功を残された歴史があります
 井出家は、日興上人以来の檀家とも言われ、宗門上代より井出姓の方々の活躍が見られます。
 総本山第十三世日院上人の御消息には、井出家が客殿の屋根を修築された旨が記されており、その内容からは、当時既に幾度となく総本山の堂宇護持に尽力されていた光景が想像されます。
 特に御影堂に関する功績を挙げるならば、建立より三年後の寛永十二(一六三五)年、現在の御影堂の須弥檀にある御宮殿の願主として、当時の当主「井出傳右衛門 法名 宗清日義」の名が記されています。
 このように、長く総本山を外護された井出家には多くの大石寺関係の御宝物が格護されており、安永七(一七七八)年に作成された当家の『御本尊目録』によれば、当時までに伝承していた御歴代上人の御本尊及び御消息などの御宝物は、御開山日興上人、第九世日有上人の御本尊など、十七点を数えており、目録外にもたくさんの御歴代上人の書物を確認することができます。
 江戸時代以降にも代々の御歴代上人の御本尊並びに書状が残されており、時代の浮き沈みに左右されることなく、困難を極めた時代でも陰に陽に総本山を篤く外護されてきた尊い証跡が見られます。
 また当時の文献に、
 「檀頭 井出傳右衛門」
と称されるように、江戸時代より当家の方々は総本山のご信徒の筆頭としての職務を代々務められ、現在でも総本山塔中百貫坊のご信徒として、総本山周辺の法華講を牽引される重要な役割を担われています。(現当主は大石寺総代・井出光彦氏)
 ともあれ、井出家は総本山と共に歴史を歩み続けているといっても過言ではなく、総本山外護を中心とした本宗信徒としてあるべき姿を数百年にもわたって実践されております。
 話は戻りますが、現在の中央塔中十二カ坊のすべての門前に一対の石灯籠があります。多くは江戸後期に造立されたもので、そのほとんどに寄進主が身内の方々の戒名を刻み、追善菩提の意を含め、御供養をされています。このような総本山における門前の石灯籠の御供養は井出・加茂両家による御影堂前の石灯籠寄進に始まったのではないかと思われます。
 言うまでもなく、御影堂を中心とする総本山の境内の姿は、それぞれの時代に生きたご信徒の尊い信仰心の結晶です。
 私たちはこのような御影堂を荘厳すべく尽力された先哲の精神に倣い、年末の御影堂大改修のための御供養も、真心から篤志を供え、平成に生きる本宗信徒としての役目を果たそうではありませんか。