立正安国論正義顕揚750年
各種記念事業の進展報告
新シリーズ
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− F
日永上人代の大改修
 従来述べてきたように、現在の御影堂は第十七世日精上人の代、寛永九(一六三二)年十一月、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮公の夫人・敬台院殿によって建立寄進されました。
 以降、御先師方は日興上人の御遺誡を守り、その尊容・格式を維持すべく、適宜改修が行われてきました。その中でも大きな改修工事の一つが江戸時代・第二十四世日永上人の代に行われた「元禄の大改修」です。
 改修に際して認められたと思われる日永上人の棟札御本尊には、次のような記述があります。
 「当寺大旦那松平阿波之守母儀敬台院日詔……寛永九年壬申此及造立……広宣時自爾以来是年六十八歳於……及破損依之……榎越等礙……祈一天四海広宣流布
 本門戒壇堂
  二十四世
  願主 日永(在判)」(「……」部分は判読ができない)
 これより推測すると、寛永九年の建立より六十八年を経過したことによる老朽化に加え、改修の二年前の元禄十(一六九七)年に起こった関東大地震によって甚大な被害を被ったために、時機を鑑み改修を行ったものと拝されます。
 この御影堂の改修が大規模なものであったようで、建物の周囲にある縁側の四隅や木製の階段の柱に取り付けられている「擬宝珠」(青銅製の金具)十二カ所には「元禄十二己卯歳四月八日」との年紀が刻まれており、これらが元禄の改修において施されたものであることが判ります。因みにこの擬宝珠には御影堂を「御本尊堂」として記しており、往時の呼称の一つを偲ばせます。
 そして元禄十三(一七〇〇)年七月二十一日、修築落慶法要が奉修されました。この時、日永上人は『堂供養法則』を記され、その末尾には、御影堂修築が完了した後、細草檀林より一門の所化学衆を招集し、法要の際に三問三答の論議式が行われた旨が記されています。また、御影堂荘厳のために「鶴」「蓮華」が寄進されています。
 またこの同年には、遠信坊日具師によって塔中・遠信坊が開創されています。遠信坊日具師について詳細は不明ですが、創建当時は石之坊の北隣、現在の本種坊周辺に建立され、この坊の庭から見る富士山が絶景であったことから「富士見庵」とも呼ばれたようです。遠信坊も御影堂改修に伴う境内整備の一環として造営された坊舎と推測されます。



  日永上人の御事蹟
 『続家中抄』によると、第二十四世日永上人は慶安三(一六五〇)年、上条村(現在の富士宮市上条字市場)の邑長であった清五郎右衛門の二男として誕生されました。(清家は第三十六世日堅上人、第四十八世日量上人の御生家)
 幼くして総本山に登り、第二十世日典上人の弟子として出家され、初めは「長然」と称されました。同抄にはその頃の日永上人を「性敏にして大度なり」(機転が鋭く利き、度量が大きい)と評しています。細草檀林に修学し、たいへんな環境の中で研鑚を積まれ、若くして「名目・条箇」を講ずるまでになられました。
 天和三(一六八三)年、三十四歳の時、当時、隠居されていた第十七世日精上人の命により、下谷・常在寺(現・東京都豊島区)の第三代住職となられます。江戸の重要な拠点であった常在寺では日精上人の後を受け、いよいよ正法弘通に励まれたことは想像に難くありません。事実、日永上人は江戸時代という改宗が禁じられた特殊な時代背景の中、多くの帰伏者を正信に導かれました。第二十六世日寛上人も初め十七世日精上人の謦咳に接して正信に目覚め、その後、日永上人の弟子として出家得度されたのです。
 また前述した御影堂の改修に当たって御供養された擬宝珠ですが、その寄進者として名を連ねるほとんどの方が江戸在住のご信徒であり、当然ながら日永上人の教化に浴した方々であると考えられます。
 元禄元(一六八八)年、三十九歳の時には、会津実成寺(福島県会津若松市)に住職として赴任されています。
 そして、元禄五(一六九二)年、四十三歳の御時、第二十三世日啓上人より血脈相承を受け、第二十四世の御法主上人として法灯を継がれました。
 日永上人は御影堂改修など境内の多くの諸堂宇を修築、当時廃絶していた天王堂・垂迹堂をも再建されており、また六万塔の建立や三門建設のために黄金七百両を残すなど、多大なる御功績を残されました。
 あくまで推測に過ぎませんが、これらの一連の御化導は、御影堂が建立された当時の御当職であった日精上人の御構想を引き継がれた一面もあったのではないかとも考えられます。
 また興学にも鋭意努められたことは有名です。元禄十(一六九七)年には御経蔵を新築し、明本一切経を約められました。第二十五世日宥上人に法を譲られた後、宝永二(一七〇五)年、日目上人以降、三百年余の間、中絶していた蓮蔵坊を再建して学頭寮とし、興学の復興を期せられました。
 正徳元(一七一一)年には弟子・日寛上人を学頭職に招聘し、大石寺内の一山大衆に御書を講義するよう命じています。
 因みに、日寛上人の御講義が御影堂において行われた記述も残っています。
 日永上人は隠居されてから七年後の正徳五(一七一五)年二月二十四日、安祥として御遷化あそばされました。御遺言により御遺骨は御経蔵の後ろに埋葬されました。
 日永上人は檀林教学と言われた時代にあって、他門の邪義がさらに乱れていく中、当門流がその弊害を受けないように、また真実の下種仏法の上から興学を図るべきであるとの意図のもとに種々の境内整備を行い、後に陸続と優秀な人材育成を輩出するための基を築かれました。
 このような観点より拝するならば、日永上人によって行われた御影堂の大規模な改修には、日有上人の、
 「当宗の本尊の事、日蓮聖人に限り奉るべし」(化儀抄)
との宗是を徹底されるという意義も込められていたように拝せられます。
 いずれにしてもこの日永上人による総本山の境内整備を基として、後の日宥上人・日寛上人へと引き継がれ、今日にみるような伽藍が整っていったのです。