立正安国論正義顕揚750年
各種記念事業の進展報告
新シリーズ
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− C
日鎮上人の御影堂建立
 総本山第十七世日精上人がお書きになった『富士門家中見聞(家中抄)』の「日鎮伝」に、
「大永二壬午年伽藍を建立す、所謂本堂、御影堂、垂迹堂、諸天堂、惣門等なり(中略)鎮師諸堂を建立する帳之レ有り」
とあるように、大永二(一五二二)年第十二世日鎮上人によって諸堂宇と共に新たに御影堂が建立されています。第十四世日主上人の代、天正年間に記された総本山の境内図には、「本堂」の西側に「御影堂」が記されており、この御影堂が日鎮上人によって建立された御影堂と考えられ、現在の二天門(中門)の周辺に建てられていたと伝えられています。

日精上人代の御影堂建立
 さて、『家中抄』によると第十六世日就上人の代にも御影堂が建立されたと示されています。しかし、寛永八(一六三一)年、大石寺は火災に見舞われ諸堂宇を失い、この時に御影堂も焼失してしまいました。御当職であった日就上人は再建のために尽力されましたが、寛永九年二月に御遷化されたため、その後を承継あそばされた第十七世日精上人によって本格的な復興が行われました。
 そして、日興上人・日目上人第三百回遠忌の年、寛永九(一六三二)年十一月十五日、日精上人が願主となり、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮公の夫人・敬台院の寄進によって新たに建立されました。これが現在の御影堂です。
 この造営には甲州下山(現在の山梨県身延町)の大工・石川与十郎家次が大工棟梁の任に当たり、相当数の人員を要して建設されました。
「大石寺御堂建立諸檀方人足合力之覚」
には、この御影堂建立に際し、大石寺の住所である上条の六百八十七人、下条の二百三十八人をはじめ、延べ七千二百十三人の人足を動員したことが記されています。
 なお、伝承の中には江戸浅草鳥越(現在の東京都台東区)の法詔寺にあった本堂を移築したとも言われています。
 また先の大石寺境内図にあるように、日鎮上人代に建立された御影堂の横に本尊堂(本堂)があるように、新たな御影堂は本尊堂と御影堂の要素を併せ持った意義を有するものと拝せられます。御影堂の「棟札」によると、この建物は当初「本門戒旦本堂」との名称で造られており、その後も江戸後期に至るまで、「御影堂」「本堂」「大堂」の呼称がありました。第六十六世日達上人は、
「御影堂と称する所に日精上人の時代は戒壇の御本尊様を祭り、本堂と称していたわけです。つまり、これまでは本堂と御影堂が並んで建っていたのですが、日精上人の時には御影堂と本堂を一所にして今の大きな御堂を建てたのでしょう。そして戒壇の御本尊様を安置して、その前に御影様を安置せられたのでありましょう」(『大石寺諸堂宇建立と丑寅勤行』二〇n)
と御指南されています。
 御影堂内陣の御宮殿は造営から三年後の寛永十二年七月、井出伝右衛門とその子息・与五右衛門尉が願主となって建立されたものです。
 また現在、御影堂に安置されている御本尊様は延宝七(一六七九)年二月十三日、当時御隠尊であった日精上人の御聖意により建立彫刻されました。この御本尊様の下部には日精上人の添書があり、
「深見広信 之を彫刻す。願主□本市左右衛門 江戸下谷常在院(現在の東京都豊島区常在寺)之講衆中敬白」
と記されています。
 この御本尊様は宗祖大聖人の御本尊様を模刻した御本尊様で、その際に本門戒壇の大御本尊様は御宝蔵に御遷座されたものと拝されます。
 御影堂は、総本山内の最古の建造物です。堂内の彫刻は創建当時そのままであり、江戸時代の代表的建造物として、昭和四十一年三月二十二日、内陣の御宮殿と共に静岡県の有形文化財に指定されています。

日精上人と敬台院
 第十七世日精上人は、宗開両祖以来の血脈を継承され、御法主上人として、門下の教化育成、『日蓮聖人年譜』や『富士門家中見聞』といった布教興学のための著述、御影堂をはじめとする諸堂宇の整備建立など、宗門の復興に多大な業績を残されま
した。中興の祖・第二十六世日寛人が日精上人の謦咳に触れて出家得度を志されたことや、第四十八世日量上人が『続家中抄』に、
「諸堂塔を修理造営し絶を継ぎ廃を興す勲功莫大なり、頗る中興の祖と謂ふべき者か」
とその御功績を称えられていることからも、このことはよく拝されるでしょう。
 さて、日精上人が書写された御影堂の棟札には、
「大施主 松平阿波守忠鎮公之御母儀 敬台院日詔信女敬白 日精養母也」
と示されています。日精上人は御影堂を寄進した敬台院を「養母」と記しており、これより日精上人と敬台院の親密さを伺うことができます。
 この敬台院は徳川家康の長男・信康の娘と古河藩主・小笠原秀政との間に生まれた人で徳川家康、織田信長の曽孫に当たります。家康の養女となって慶長五(一六〇〇)年、九歳の時に蜂須賀至鎮に嫁ぎました。その後、縁あって日精上人に深く帰依され、大石寺御影堂の建立寄進の他に、元和九(一六二三)年の江戸鳥越・法詔寺建立、寛永十四(一六三七)年の大石寺朱印状下附の実現、寛永十五年の総本山二天門の建立、日精上人の公儀年賀における乗輿の免許、寛永十五年の大石寺基金七百両の寄進、寛永十九年の「細草檀林」設立に当たっての支援、正保二(一六四五)年法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺を創立するなど、総本山の復興をはじめとする宗門の興隆のために多大な外護をされました。御影堂の裏手には娘の芳春院の正墓と共に敬台院の二つの供養塔があります。その一つは生前に建てられた逆修塔と呼ばれるもので、その石塔の建立日として御影堂建立の翌年に当たる「寛永十年六月十五日」との日付が刻まれており、その功績を称えて建立されたものと拝されます。
 現在の御影堂は、唯授一人の血脈相承をお受けになったお立場より、『日興跡条々事』の条文を堅く護られんとされた日精上人の御意志と、その御化導を助けるべく、赤誠の御供養をもって外護された敬台院との僧俗一致・異体同心のお姿の象徴ともいうべき堂宇なのです。