立正安国論正義顕揚750年
各種記念事業の進展報告
新シリーズ
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− B
 御影堂の濫觴
 宗門史における御影望建立の起源は、大聖人御入滅直後にまで遡ります。大聖人は御入滅に先立ち、第二祖日興上人に対し、唯授一人の血脈を相承されると共に、身延山久遠寺の別当職を譲られました。
 前回も紹介しましたが、重須談所の学頭であった三位日順師の
『日順雑集』に、
「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ」
(富士宗学要集二−九五n)
とあるように、身延山には大聖人の御在世当時に御影堂はなく、大聖人御入滅の後に、別当であった日興上人の指示によって、大聖人のお住まいであった住居をそのまま御影堂に改められました。日尊師の行跡について記された『尊師実録』には、
「弘安七年甲申五月十二日甲州身延山へ登山。同年十月十三日大聖人の第三回御仏事に相当するの日、始めて日興上人に対面、御影堂に出仕」
とあります。即ち、「日尊師は大聖人の三回忌に当たる弘安七(一二八四)年十月、身延山に登山した折に初めて日興上人と対面し、御影堂に出仕した」とあり、日興上人は身延入山後、直ちに御影堂を造立されたことが判ります。
 日興上人は、大聖人を末法の御本仏と拝し、信仰の対象とされたがゆえに、大聖人の御影を安置する堂宇として、御在世と変わらない大聖人に対する常随給仕をするための道場として御影堂を造られたと拝されます。
 

大石寺開創と御影堂建立

正応二(一二九八)年、日興上人は波木井実長の謗法を契機として、本門戒壇の大御本尊をはじめとして、大聖人の御霊骨や最初仏等の御宝物を捧持され、身延の山を離山あそばされました。
 そして、翌年の正応三年、上野郷の地頭、南条時光より寄進を受け、本門戒壇の大霊場として、四神相応の大石が原の地に大石寺を開創されます。
 開創当時の大石寺にどのような堂宇が存在したかを記す文献は少なく、定かではありませんが、日興上人から日目上人に与えられた譲り状である『日興跡条々事』に、
「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書一八八三n)
と仰せであり、さらに日興上人の 御化導を拝察すれば、日興上人は大石寺開創時から御影堂を建立されていたものと拝されます。
 また、日目上人の弟子である民部日盛師の書状に、
「明日より御堂の番にて候」
とあり、現在でも続く「御影堂番」の番役の存在がうかがえます。
 以降、御影堂は、意義、位置共に大石寺の堂宇の中心としての役割を果たし、御歴代上人の管領のもとに新築や改修が行われていきました。
 ちなみに、日興上人は永仁六(一二九八)年に重須談所(現在の北山本門寺)を開かれた時にも即座に御影堂を建立されています。
 
日時上人の御影造立
 さて、第三祖日目上人御遷化の後の大石寺では、東坊地いわゆる蓮蔵坊を中心とした土地の所有権を巡って係争が起きました。これをきっかけとして日郷師は大石等を退出し、その際、あろうことか、御宝物の一部と共に御影堂に安置されていた御影を大石寺から持ち去ってしまったのです。
 これを受けて第五世日行上人、第六世日時上人は東坊地の安堵と御影の返還を求め、問題の解決に心血を注がれました。しかしながら、当時の様々な問題と相俟って、結局奪還には至りませんでした。
 このような状況の中、日時上人は嘉慶二(一三八八)年十月十三日、等身大の御影を造立されました。この御影の「裏書」には、
「敬白大施主
  奥州法華宗等僧俗男女
  野州法華宗等僧俗男女
  武州法華宗等僧俗男女
  駿州法華宗等
   願主卿阿闍梨日時在判
 嘉慶二年太才戊辰十月十三日
      仏師越前法橋快恵在判」
と記されているように、仏師・越前法橋快恵の彫刻によるもので、当時の全国の僧俗が浄財を御供養されました。この御影は、現在、総本山の御影堂に御安置されています。
 この頃の他門の文献に、大石寺の御影堂に関する記述が残されています。
 他門流(日什門流)の日運が記した『門徒古事』によると、京都の他門の僧・玄妙日什は京都の妙顕寺が山徒に破却されたことを受け、日蓮門下に対して使者を送り、共に天奏をするよう呼びかけたようです。その要請に対して大石寺は、
「御影堂を造立し候間、隙無し(御影堂を造営中であるから暇がない)」
との理由で応じなかったとあります。正統門流である大石寺が、他門の輩と共に天奏することは大聖人の御意に背きますから応じないのは当然ですが、「御影堂を造立し」との記述があります。
 妙顕寺破却が元中四(一三八七)年のことで、日時上人が御影を造立された前年に当たります。つまり、日時上人が御影を新たに造立された時期と、日什が天奏を呼びかけた時期がほぼ同時です。御影の裏書を改めて見ると、「大施主」として全国の僧俗が列挙されており、御影造立が宗門を挙げての大事業であったことがうかがわれます。
 したがって、大石寺開創より約百年が経過して堂宇の老朽化が進み、持ち去られた御影の返還の目処が立たない―この時期に御影造立と時を同じくして、御影堂も新たに建立されたことが推測されます。
 いずれにしても、大石寺が御影堂を重要な堂宇と位置付けている事実を、他門も認識していたことが判ります。