立正安国論正義顕揚750年
各種記念事業の進展報告
新シリーズ
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− A
 御影の意義
 御影とは、一般的には偉人・祖師等の絵像・木像に対する尊称です。本宗では基本的に宗祖大聖人の御姿を形にされた絵像・木像を御影と言い、この御影を安置するために造られた堂宇を「御影堂」と言います。
 御影の意義を拝する上で留意しておかなくてはならないのは、あくまでも信仰の対境は大曼荼羅御本尊であるということです。よって御影は御本尊の前、もしくは左右に安置されますが、御影単体での御安置はありません。
 ここで本宗における御本尊の奉安様式について説明します。御本尊の御安置の意義には一体三宝と別体三宝の二通りの様式があります。
 一体三宝とは、大曼荼羅御本尊一体を奉安する様式であり、一幅の大曼荼羅御本尊に、法宝としての人即法の本尊、仏宝としての法即人の本尊、僧宝としての唯我与我血脈付法の日興上人等の三宝が具わります。また別体三宝とは、総本山客殿に代表されるように、中央に法宝の大曼荼羅御本尊を安置し、向かって左に仏宝の大聖人御影、右に僧宝の日興上人御影を安置します。
 御影堂は、前者の一体三宝式に属する住持三宝の奉安様式で、大曼荼羅御本尊の前面に大聖人の御影が安置されています。これは人法一箇の意義の上から、大曼荼羅御本尊を「御魂魄」とする末法の御本仏・日蓮大聖人の三世常住の御化導を顕す意義があります。

 御影造立の歴史
 大聖人の御影造立の濫觴は大聖人御在世中のことです。第十七世日精上人の『日蓮聖人年譜』には次のようなエピソードが紹介されています。
 「大聖人が弘安二年に本門戒壇の大御本尊を御図顕され、それを和泉公日法師が御謹刻なされた。その時、日法師が後世の者のために大聖人御影の造立を志され、まず大きさ三寸の御影を造り、袖裏に入れて大聖人のもとに行き、その御影をお見せして大聖人の等身の御影を造立したき旨を申し上げたところ、大聖人はその御影を手のひらに置かれ、笑みを浮かべられてその懇願を承諾された」
とあります。この時に日法師が謹刻した大きさ三寸の御影が、初めて造立された御影であることから、古来総本山ではこの御影を「最初仏」、「造初めの御影」と呼び、現在は奉安堂須弥壇の向かって右に位置する御宮殿に御安置されています。
 大聖人御入滅の後、他の門下においても多くの御影が造られたようですが、日興上人の門流では、なるべく大聖人の面影を留めようと、御影を造立するに当たって、大聖人にお会いした人たちが一同に評議して、その製作年月を記入するなど、厳格な評議のもとに行われていたようです。

 日興上人の御影尊崇
  御影について、『富士一跡門徒存知事』に、
 「先づ影像(御影)を図する所詮は後代には知らせしめんが為なり」 (御書 一八六九n)
とあるように、後世の僧俗が御影の御姿を通して、生身の大聖人の御姿を偲び奉り、御本尊に対する信心をより深めていくことが大切です。
 日興上人には数多くの御消息がありますが、それらを拝すると、ご信徒から頂戴した御供養をすべて大聖人に御供えし、御覧に入れていたことが拝せられます。
 「御手作の熟瓜二龍、御酒一具、聖人御影の御宝前に申し上げまいらせ侯い了んぬ」
 「聖霊御具足、法華聖人の御宝前に申し上げまいらせ候」
 ここに「聖人御影」と記されているように、当時の御宝前には大曼荼羅御本尊と共に、既に大聖人の御影が御安置されていたことが伺えます。この御振る舞いから、日興上人は大聖人を単なる「師匠」「偉人」というような見方ではなく、御奉安する信仰の対象、即ち御本仏と拝されていたことが明確です。
 他の五老僧ら多くの弟子は、大聖人に対し、師匠としての尊敬の念は持っていたようですが、大聖人が末法の御本仏であることを理解していませんでした。この影響によって、他門では大聖人の末流を名乗りながらも、大聖人の教えに反した教義を喧伝し、現在でも大聖人の御立場を「祖師」「菩薩」として位置づけています。
 これに対し、唯一正統の総本山大石寺では御開山日興上人以来、大聖人を、外用は上行菩薩の再誕、内証は末法下種の御本仏として拝してきた歴史があります。この教義信条の意義を象徴するのが、御影堂の存在です。日興上人の薫陶を受け、重須談所の学頭であった三位日順師は『日順雑集』に次のように述べています。
 「聖人御存生の間は御堂無し、御滅後に聖人の御房を御堂に日興上人の御計として造り玉ふ、御影を造らせ玉ふ事も日興上人の御建立なり」(富士宗学要集二−九五n)
 ここに記されているように、大聖人が御入滅の後に別当になられた日興上人の指示により、大聖人の住房を御影堂とし、またそこに御安置の大聖人の御影も、日興上人の御意向によって造立されたということです。