立正安国論正義顕揚750年
各種記念事業の進展報告
新シリーズ
御 影 堂
−尊厳なる意義と歴史− @
はじめに
 現在、総本山大石寺では『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念事業の一つとして、御影堂の大改修工事が行われています。
 現在の御影堂は、第十七世日精上人の時、寛永九(一六三二)年、日興上人・日目上人第三百回遠忌の年、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮公の令室・敬台院殿の寄進によって再建造営されたものです。
以来、三百七十余年の間、たびたび改修が行われてきましたが、時代の経過と共に老朽化が進み、かねてより大規模な改修を要する状態でした。こうしたことから、このたび『立正安国論』正義顕揚七百五十年の記念事業として、大改修工事を行うことになったのです。
 今回の大改修は、一度解体をして建て直すという、今までにない大がかりな工事であり、工期として六年を要し、今のところ平成二十四年には工事が完了する予定です。当分、御影堂内に立ち入ることはできませんが、改修の後には以前よりさらに荘厳された姿を見ることができるでしょう。
 御影堂は境内における配置を見ても判るように、歴史的にも大石寺境内の中心としての役割を果たしてきました。また現在でも七日・十三日・十五日の御報恩御講、宗祖御大会・御霊宝虫払会の二大法要、また法難会等、大事な儀式が奉修されており、総本山において実に重要な意義を持つ堂宇です。
 そこで今号より数回にわたり、御影堂に関する様々な事柄を取り上げ、学んでいきたいと思います。

御影堂は大石寺の象徴
 総本山の境内は幾多の変遷を経てきましたが、伝統的に御影堂を中心とした伽藍配置になっています。大石寺は、大聖人より唯授一人の血脈相承をお受けになられた第二祖日興上人によって創建されましたが、その日興上人の住まわれた大坊、また第三祖日目上人開基の蓮蔵坊も御影堂の下位に位置するように、他の諸堂字が御影堂を基点として形成されてきた経過があり、古来、大石寺の象徴としての中心堂宇の役割を果たしてきたのです。
 では、なぜ御影堂が境内の中心的な場所に位置しているのでしょうか。周知のように、御影堂は漫奈羅御本尊と共に、大聖人の御尊像(御影)を安置申し上げる堂宇ですが、その意義は大聖人への「常随給仕」ということが最大の理由であると考えられます。
 当然、その濫觴は御開山日興上人に遡るわけで、大聖人に対し奉り、御入滅の後も御在世と変わらないお給仕を申し上げ、御報恩の誠を尽くすとの御精神が建造物として具象化された堂宇と言えるでしょう。
 また、これは日興上人の御遺命によるものであると拝せられます。日興上人から第三祖日目上人への譲り状である『日興跡条々事』に、
「一、大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(御書一八八三n)
とあるように、「御堂」(御影堂)を広宣流布の暁まで維持管理していくことを最重要事の一つとして日目上人に御遺言されています。これによって御影堂は大石寺における中心的な堂宇として荘厳されてきました。これには、建造物としての維持と共に、いつの世にあっても御影に対して大聖人が在世のごとく常随給仕をしていきなさいとの御意志が拝せられます。
 要するに、御影堂が大石寺の中心に位置するのは、日興上人以来、大石寺の伝統的な教義信条、すなわち宗祖大聖人を末法下種の御本仏と拝する立場が境内に反映された伽藍配置なのです。
 この日興上人の大聖人に対する尊い御意志、すなわち日興上人御遷化の後も日興上人が大聖人に常随給仕された時と変わらないお給仕を後世の弟子に託され、またその教えを伝えるべく造営されたのが御影堂であると考えられます。

 現在行われている御影堂の大改修は、先の『日興跡条々事』の御指南、すなわち日興上人の御遺言である「修理を加へ」る一環であることは言うまでもありません。御法主上人猊下がなされる尊い事業に連なり御供養をさせていただけることは、我々僧俗にとってこの上ない喜びであり、善業です。また、この平成の世に生きる我々法華講衆は、この大聖人の正しい仏法をお伝えくださった日興上人への御恩に報いるためにも、今回の御供養に挙って参加しようではありませんか。