平成25年3月16日付
総本山を歩く
第45歩 ~日応上人歌碑~
 東塔中参道の歩みを進めると、西側に蓮葉庵が建てられています。この蓮葉庵の庭園に総本山第56世日応上人の御辞世の碑が立てられています。
 この碑には、日応上人が、
 「草の葉に置く身は露と消ゆるとも 意は法の華に注がん」
とお詠みになられた御歌が刻まれています。
 日応上人の「応」の字を囲むようにして、「日」の字をお認めになられているのが特徴的です。
 この碑が立てられている蓮葉庵は、往古の寿命坊旧跡であり、第52世日霑上人が建立して蓮葉庵と称し、日応上人が御隠退後、ご登山の折に住まわれる所として復興されたゆかりの地です。
 日応上人は、嘉永元(1848)年、山梨県の上神内川村(現在の山梨市)に誕生され、安政5(1858)年に、日霑上人の徒弟となられました。
 その後、福島県三春町・法華寺、仙台市・仏眼寺の住職を務められ、福島市に広布寺を建立されるなど、奥州広布に邁進されました。
 明治19(1886)年には、東京常泉寺の住職を務められ、明治22年に、第55世日布上人より御相承を御受けになられ、第56世の法灯を継がれました。
 当時、本宗は、明治政府の政策により、日蓮宗興門派に所属させられましたが、要職にあられた日応上人は、独立を断固主張され、明治33(1900)年、長年の尽力が実り、本宗は独立を果たしました。
 また、日応上人は、総本山の境内整備にも尽力され、明治5年には、大規模な御影堂の修築を行われています。
 明治41年に、第57世日正上人に法を付嘱された後も、東京都江東区に白蓮院を建立され、東京都豊島区・法道院の前身である法道会を設立されるなど、首都圏を中心とした弘通に邁進されました。
 有名な著述には、要法寺(日蓮本宗)・驥尾日守の論議を下種仏法の本義から破折された『弁惑観心抄』などがあります。
 私たちは、日応上人の御生涯を通して折伏弘教に邁進された御精神を拝し、日々の信心修行に励んでいくことが大切です。