平成24年10月16日付
総本山を歩く
第40歩 ~遠信坊~
 法祥園東側の東塔中に歩みを進めると、遠信坊が建てられています。
 遠信坊は、総本山第24世日永上人の代に、遠信坊日具師によって、元禄年間(1688~1703年)に創建されました。当時は石之坊の北側、今の本種坊の辺りに建立され、そこから見る富士山が絶景であったことから「富士見庵」とも称されていました。
 その夜、元文2(1737)年、第30世日忠上人の代に、島崎嘉亭氏(後の円入坊日勝師)によって再興され、文久2(1862)年、第51世日英上人の代に、薩摩藩藩主・島津斉彬公の寄進によって再々興されています。
 この文久の再興は、島津斉彬公が、同じ島津家出身で南部八戸藩藩主であった南部信順公の折伏によって入信し、その斉彬公の養女で江戸幕府第13代将軍家定公の正室・天璋院篤姫が無事お城入りできたことに対する御報恩として、金子100両を総本山へ御供養され、日英上人が現在の大講堂の東側付近に建立されたものです。
 その後、昭和38(1963)年には、第66世日達上人により、現在の地に移され、平成19年に、『立正安国論』正義顕揚750年の記念事業により、御当代御法主日如上人猊下によって再建新築されました。
 これまで遠信坊は、第36世日堅上人、第44世日宣上人、第51世日英上人が、隠居所としてお住まいになられました。
 現在、遠信坊の本堂の御宝前には、第66世日達上人が認められた常住御本尊が御安置されています。
 この遠信坊を再々興された斉彬公の養女で、将軍家定公の正室・天璋院篤姫は、後に家定公・斉彬公の死、後継者問題、さらに安政の大獄、桜田門外の変等の世情の混乱にたいへん心を痛められ、当時、常泉寺住職を務められていた日英上人に御祈念を願い出られました。
 そこで日英上人は、万延元(1860)年3月14日より51日間、朝・昼・夜に分けて、1日に12時間の唱題を行ったところ、次第に世情も平穏になり、篤姫は、日英上人と常泉寺に報恩感謝の御供養をされたことが当時の書物に記されています。
 我々は、遠信坊を建立寄進された方々の信仰姿勢を受け継ぎ、日々の唱題行に励み、その功徳をもって折伏行に邁進することが大切です。