平成23年11月16日付
総本山を歩く
第35歩 ~敬台院殿供養塔~
   現在、大改修工事が行われている御影堂の北側に、御影堂を建立された江戸時代の大檀那敬台院殿の2本の石塔が建立されています。
 そのうち、右側の石塔が逝去後に建てられた供養塔で、左側の石塔が御影堂建立の功績を称えられて生前に建てられた逆修塔です。
 また、敬台院殿の供養塔の左側には、長女である芳春院殿の正墓が建てられています。その子息である鳥取藩初代藩主の池田光仲は、鳥取県に日香寺を建立されています。
 敦台院は、文禄元(1592)年に下総古河藩(現在の茨城県古河市)の藩主の小笠原秀政と登久の長女として生まれました。母の登久は、徳川家康の長男である信康と、織田信長の長女である徳姫の間に生まれていることから、敬台院殿は、信長と家康の直系の曽孫に当たります。
 そして、慶長5(1600)年には、家康の養女となり、阿波徳島藩(現在の徳島県)の藩主の蜂須賀至鎮に嫁ぎました。
 その後、縁あって総本山第17世日精上人より折伏を受けて入信し、篤き信心により、寛永9(1632)年11月15日に、御影堂を建立して御供養されました。
 その他にも、元和9(1623)年にほ、江戸鳥越に法詔寺を建立され、寛永14(1637)年には、総本山大石寺の朱印状下付を幕府に依頼して許可を受け、寛永15年には、総本山に二大門を建立し741両の御供養をされ、寛永19年には、上紘(千葉県)に細草檀林という学問所設立の支援をされ、正保2(1645)年には、江戸法詔寺を阿波徳島に移して敬台寺を建立されるなど、総木山への御供養を中心に、本宗の興隆発展のために多大な冬カをされました。
 晩年は、阿波徳島の地において、本宗外護や先立たれた夫蜂須賀至鎮や長女芳春院の追善供養に励まれ、寛大6(1666)年1月4日に75歳で生涯を閉じられています。
 戒名は敬台院殿妙法日詔大姉といい、正墓は数台寺に建立されています。
 私たちは、生涯を通して総本山への真心からの御供養に尽くされた敬台院殿の信仰姿勢を学び、本年12月に行われる御影堂大改修事業の特別御供養に巡り合うことができた身の福徳に感謝し、家族揃って真心からの御供養を申し上げ、現当二世に亘る功徳善根を績んでまいりましょう。