平成21年11月16日付
 大納骨堂の東側に、大聖寺落第10代藩主利極の正室であった勇姫をはじめとする加賀大聖寺藩前田家の墓所があります。
 この墓石は、天保9(1838)年、第51世日英上人の代に建てられました。
 さて、加賀藩の信仰は、第5代藩主綱紀の代に、藩の武士たちが参勤交代で江戸の加賀藩上屋敷に来ていた際、常在寺で第17世日精上人の説法を聴聞して入信したことによります。
 しかし、第6代藩主吉徳の代になると、藩は、幕府の宗教政策に則り、本宗を厳しく取り締まるようになりました。
 享保11(1727)年4月には、加賀の法華宗慈雲寺の僧・了妙が本宗に帰伏し、慈雲寺が寺社奉行に訴え、本宗の信仰は完全に禁止となりました。この当時、加賀の信徒は数千人となっていました。そこで第28日詳上人は、藩の領内に寺院建立を願われましたが、認められませんでした。これに対して藩では、さらに大石寺信仰禁止令を出し、背いた者は、閉戸・入牢などの刑に処され、獄死する者も出ました。これが金沢法難です。
 この法難は、約150年間続きましたが、信徒たちは弾圧に負けず抜け参りを行うなど、強盛に信仰を続けました。
 そして、禁制が解かれ明治12(1879)年、第52世日霑上人により、金沢の地に悲願の妙喜寺が建立されたのです。
 この加賀藩の支藩が大聖寺藩です。大聖寺藩前田家・勇姫の入信は、江戸時代後期です。
 勇姫は、13歳で母を亡くし、大聖寺藩に嫁いだ3年後に大の利極が27歳の若さで急死、翌年にはただ一人の娘も2歳で死去し、自らも病に伏し、容態は次第に悪化していきました。
 そこで、第48世日量上人は、勇姫の病気平癒のため、戒壇の大御本尊に御祈念され、御本尊を下付し、勇姫付きの武士・小塚与平や、国許で講頭をしていた窪田善領等の信徒は、講中一丸となって唱題に励んだのです。その結果、5カ月後にほ病気が快復しました。
 これを機に、藩内の武士や側近の女中たちも信仰に励むようになりました。また、大聖寺
藩第11・12代正室、そして最後の藩主である第14代利鬯も、勇姫の教化により入信しました。
 そして、勇姫は、明治8(1875)年、64歳で逝去しました。法名は、寿正院殿妙量日詮大姉と言います。勇姫の遺言により、遺骨は江戸常泉寺に埋葬され、遺髪が総本山の墓地に納められました。
 我々は、言語を絶する厳しい法難に耐え抜いた金沢信徒の信仰の姿勢を受け継ぎ、未来にわたって布教に励んでいくことが大切です。