平成21年10月16日付
 大納骨堂の東側に板倉勝澄公をはじめとする板倉家の墓所があります。
 この墓石は、明和6(1769)年、総本山第35世日穏上人の代に建てられました。
 勝澄公の本宗への貢献は、五重塔建立の御供養に代表されます。
 勝澄公は、享保4(1719)年6月、伊勢亀山城(三重県鈴鹿市)において、父重治の長男として出生し、同9(1724)年、重治の逝去により6歳で遺領を継ぎました。その後、亀山城より備中松山城(岡山県高梁市)に移りますが、生来、病弱であった勝澄は、城主としての任務の遂行ができなくなるほど病に悩まされていました。
 そこで勝澄は、縁あって総本山第31世日因上人から大聖人の教えを学び、日蓮正宗の信徒となりました。
 ちょうどその頃、大石寺では、かねてより進められていた五重塔の建立の最中でありました。これを聞いた勝澄は、日因上人に五重塔の建立資金として、一千両の御供養をされたのであります。
 そして、寛延2(1749)年の春、五重塔は、約3年の年月を要して建立されたのです。
 その後、勝澄は、大石寺に五百両の御供養を納め、慈雲堂を建立し、城下には寿宝堂を建立して、信行に励みました。また、有明寺(山梨県身延町)へ三百両並びに石塔の御供養をしたり、奥州の上行寺(宮城県登米市)・妙教寺(宮城県栗原市)の御本尊54幅を再表具するなど、晩年に至るまでまことに信仰心の篤い人でありました。
 明和6年、大聖人の仏法を固く信じ報恩行に尽くされた勝澄は、51歳にして、霊山浄土へ旅立ちました。
 戒名は「慈雲院殿嘉誠源承日明大居士」と賜っています。
 私たちは、この勝澄の篤き信心修行と真心からの御供養に励むことが大切です。