平成21年9月16日付
 大納骨堂の東側に大行尊霊の墓所があります。この墓石は、総本山第30世日忠上人の代に建てられました。
 大行尊霊とは、大聖人御在世当時、富士郡上野郷の地頭で、大石寺の開基檀那である南条時光のことです。時光は、父の兵衛七郎が亡くなった七歳の時、南条家に墓参に見えられた大聖人に初めてお会いしました。その後、大聖人は佐渡御配流を経て身延に入山されます。時光が再び大聖人にお会いしたのは身延入山直後で、十六歳の頃でした。その際、時光は数々の御供養を携えて身延に登っています。
 また日興上人が、大聖人の御名代として富士上野郷、熱原地方へ折伏弘教を進められると、時光は住居を提供するなど、共に折伏行に邁進しました。熱原法難の際には、大聖人・日興上人の御教導のもと、護法の一念をもって幕府等の謗法者の弾圧と闘い抜きます。幕府は法難後も、時光に対して不当な重税を課して経済的な圧迫を与えていきましたが、時光はその苦しみに負けることなく、常に大聖人への御供養を続けました。
 大聖人は、時光の不自惜身命の信心を称讃され、『上野殿御返事』(御書1427㌻)の中で、「上野賢人殿」と尊称されています。また時光は、『異体同心事』や『法華証明抄』など、現存するだけでも30数通に及ぶ御書を大聖人より賜っており、御在世当時の信徒の中でも最も多いことから、その純粋な信心を伺うことができます。
 弘安五(1282)年10月に大聖人が御入滅あそばされ、その御葬送に際して時光は、散華の大役を勤めました。さらに日興上人の身延離山の際には、広大な大石が原の地を御供養申し上げ、大石寺建立の礎を築いています。
 晩年には、13人の子供にも恵まれ、一族からは、第三祖日目上人、第四世日道上人をはじめとして、数多くの僧侶を輩出し、正和三(1314)年には、自らも出家して道号を「大行」と改めています。
 そして、正慶元(1332)年5月1日、大聖人の正法流布のために偉大な功績を残して、74歳の生涯を終えます。
 この大行尊霊の功績を讃え、総本山では毎年5月1日に、御法主上人猊下大導師のもと、大行会が奉修され、毎年8月14日には、墓参の儀が執り行われています。
 私たちは、大聖人・日興上人に信伏随従し奉り、一生を通してひたむきな信仰を貫いてきた大行尊霊の精神を学び、後世に受け継いでいくことが大切です。