平成18年9月16日付
 
タッチ
 五重塔は、絃本山第26世日寛上人が
享保11(1726)年6月に、徳川幕府第6代将軍家宣公の妻である天英院と共に、起塔の志を立てられ、資金を残されたのが始まりです。
 その後、絃本山第27日養上人から五代に渡る御法主上人が、その御意志を受け継がれ、総本山第31世日因上人の代に、諸国を勧化して受けられた僧俗からの御供養と、備中松山藩主の板倉勝澄公の寄進により、寛延2(1749)年6月12日に建立されました。
 そして、総本山第43世日相上人の代である享和元(1801)年、総本山第64世日昇上人の代である昭和28(1953)年、総本山第66世日達上人の代である昭和42(1967)年にそれぞれ修復がなされ、現在に至ります。
 規模は、3間半(6.4メートル)四面、高さは34.3メートルで、土台から上部まで大木が貫通しており、この五重塔の大きさは東海道随一です。
 堂宇内都には、紘本山第31世日因上人が寛延2年2月3日に認められた常住御本尊が奉安され、毎年2月16日には「御塔開き」の法要が奉修されています。
 また、昭和41年6月11日には、国の重要文化財に指定されました。
 塔の起源は、釈尊滅後に弟子などが仏の舎利(骨)を安置するために建立したのが始まりです。塔には、仏に対する報恩と信仰の象徴という意義があります。また、本宗の塔が五重であるのは、大聖人様が『阿仏房御書』に、
「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。
法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり」(御書 792)
と説かれるように、宝塔を妙法蓮華経の五字と解釈するためです。
 寺院の建物は、本来、南向きに建立されていますが、五重塔は西向きに建てられています。それは大聖人様が『壊暁八幡抄』に説かれるように、インドから中国、朝鮮、日本へと東に向かって伝えられてきた釈尊の仏法が力を失い、大聖人様の真実の仏法が、日本から朝畔、そして中国からインドへと西に向かい、さらには全世界へ流布するという教えに基づくものです。
 私たちは、この大聖人様の御教示を拝して、御法主上人猊下の御指南のもと、広宣流布に向かって日々信行に邁進し、一人でも多くの人に正しい教えを弘めてまいりましょう。