平成18年3月16日付
 
【タッチ】
 大永2(1522)年、総本山第12世日鎮上人によって建立された小御堂が御影堂の始まりです。そして、寛永9(1632)年、第17世日精上人の代に、阿波徳島の藩主・蜂須賀至鎮の夫人である敬台院の寄進によって再建された建物が現在の御影堂です。
 その後、第24世日永上人の代の元禄12(1699)年、および第56世日応上人の代の明治35年に修理されました。さらに第66世日達上人の代の昭和46年に大改修が施されています。この時に、御宮殿をはじめ、金箔の丸柱や彫刻などにも改修が加えられ、寛永9年造立時の荘厳さのままに復元されました。
 建物の大きさは、間口が25メートル、奥行きと高さが共に23メートルあります。
 堂宇内部の須弥壇には、第17世日精上人が延宝7(1679)年に認められた大漫荼羅本尊が奉安され、その御前には、嘉慶2(1388)年、越前の仏師、法橋快恵によって謹刻された大聖人等身の御影が安置されています。この奉安の形式は、御本尊様が人法一箇であることを表されています。
 また、御影が表される理由とは、御本仏大聖人様が三世に亘って常住であることと、後の時代の人たちにその御姿を知らせるためです。ですから、日興上人が『富士一跡門徒存知事』に、
「影造を図する所詮は後代には知らせしめんが為なり」(同 1869)
と説かれています。この御影を御安置する堂宇として御影堂が建立されたのです。
 現在の御影堂は、建立されてから370年以上もの年月が経過していますが、総本山の重要な法要・儀式(毎年奉修される御霊宝虫払大法会や御大会の二大法要、毎月7日、13日、15日の御報恩御講等)が執り行われる大切な堂宇として、今もなお目を見張るほどの風格を備えています。これは日興上人の『日興跡条々事』における、
「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり」(同 1883)
との仰せを、日目上人をはじめ代々の御法主上人猊下が今日まで受け継がれてこられたからです。
 代々の御法師上人猊下は、日興上人の御意を受け継がれ、常に大石寺の諸堂宇を整備されて広宣流布に向かって先陣に立たれています。したがって、私たちは、御法主上人猊下の御指南に信伏随従し、その御恩徳に報いるためにも、日々の興学布教に励むことが大切です。