平成24年2月16日付
                大聖人様のお名前について
 皆さん、こんにちは。
 寒い日が続いていますが、お元気ですか。二月は如月(きさらぎ)と言いますが、これには、寒さでさらに衣を着る「衣更着」、草木が芽を出す「草木張月」など、様々な由来があります。寒さの厳しい時期ですが、草や木が芽吹き始めるという、生命が活動を始める尊い季節でもあります。
今日二月十六日は、宗祖日蓮大聖人様の御誕生会です。そこで、今回は大聖人様のお名前の意義についてお話します。

御誕生について
 大聖人様は、貞応元(一二二二)年にお父様・貴名次郎重忠、お母様・梅菊女のもとに、漁師の子として御誕生され、幼名を善日麿と言われました。お生まれになった安房国(現在の千葉県)長狭郡東条郷には、日本一の諸天善神とされる天照大神の御厨があって、当時は日本第一の地と言われていました。その東条郷の片海という場所にお家がありました。
 そして、お釈迦様の入滅が二月十五日であるのに対し、大聖人様は二月十六日の御誕生です。これは、お釈迦様の仏法の力がなくなり、日本に御本仏が御出現されるという不思議な因縁を示していると言えます。

末法という時代
 お釈迦様は、末法という時代に仏様が現われ、一切衆生を救済されると法華経に説かれました。
 お釈迦様の滅後千年を正法時代、次の千年を像法時代と言い、その後の時代を末法と言います。
 正法・像法時代は、お釈迦様の教えによって、人々が利益と功徳を受けることができる時代を言います。末法時代は、お釈迦様の仏法の効力がなくなり、人々の心が荒れ果て、世の中は混乱し、争いが絶えない時代を言います。
 日本においては、平安時代末期から鎌倉時代に移る頃に、末法の相が現われ始めます。
 親戚同士で争う保元の乱・平治の乱、下剋上の承久の乱が起こり、社会の秩序・人として守るべき道徳が乱れ、さらには、天災や飢饉疫病が流行り、思わず目を閉じたくなるような悲惨な世の中となってしまいました。
 このように、人々がとても苦しみ、救いの手を求める中、不幸の闇の一切を照らすように、宗祖日蓮大聖人様が御出現あそばされるのです。

「日蓮」の御名について
 お釈迦様は、末法時代に一切衆生を救われる仏様が出現されると法華経に予言されました。『法華経神力品第二十一』に、
「日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し」(法華経 五一六n)
と説かれています。これは太陽と月の明るい光が暗闇を照らすように、御本仏が人として世に御誕生され、一切衆生を救われるということです。『法華経従地涌出品第十五』には、
 「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」(同四二五n)
とあり、泥沼の中から清らかな花を咲かせる蓮のように、御本仏は混乱した世の中にあっても、清らかな蓮華のようであると説かれました。
 大聖人様は、『四条金吾女房御書』に、
 「明るさといえば、日や月の光に勝るものがあろうか。浄らかさといえば、蓮華に勝るものがあろうか。法華経は、日・月と蓮華と同じである。故に妙法蓮華経と名付ける。日蓮もまた日・月と蓮華と同じなのである(趣意)」(御書 四六四n)
と御指南されています。
 つまり、「日月」の「日」と「蓮華」の「蓮」をとられて、「日蓮」と名乗られたのです。

 「大聖人」との尊称
 私たち、日蓮正宗僧俗は、「日蓮大聖人」と拝しています。なぜ「大聖人」とお呼びするのでしょうか。『開目抄』に、
 「仏様は、真実の言葉を説く人です。このため聖人・大人というのです(趣意)」(同 五二九)
 また、総本山第二十六世日寛上人は、『文底秘沈抄』に、
 「どうして、日蓮正宗だけが日蓮大聖人というのですか。それは、大聖人様が御自ら示されたものであり、また仏様としての別な尊称だからです(趣意)」(六巻抄 五三n)
と御指南されています。「聖人」とは、過去・現在・未来の三世を見通す仏様を言います。「大人」とは、聖人の中にもさらに勝れて、一切衆生を成仏へと導く仏様を言います。この「大人」と「聖人」という仏様の尊称を合わせて「大聖人」というのです。
 したがって、「日蓮大聖人」というお名前は、お釈迦様が予言された、末法という苦しみに満ちあふれた時代に、一切衆生を救われるために御出現された仏様という意味なのです。
 大聖人様は、私たち末法の一切衆生に、大石寺奉安堂に在す、本門戒壇の大御本尊様を顕わされ、すべての苦しみや悩みを根本から解決し、幸せになるための方途を御示しあそばされました。
 自分が幸せになることも大切ですが、世界中には、大聖人様の教えを知らない人がたくさんいます。ですから、皆さんが、大聖人様の教えを一人でも多くの人に語り、弘めていくことが大切です。
 これを慈悲行と言い、折伏と言うのです。

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 皆さんにも、一人ひとりに立派なお名前があります。お父さんやお母さん、そしてお名前を考えた方は、「こういう子に育って欲しい」「こういう人になって欲しい」という強い願いと思いを込めて、付けられたと思います。
 総本山第二十六世日寛上人は、
 「名は必ず体を顕わすの徳有り」(御書文段 六一四n)
と仰せられています。
 今一度、自分の名前の意義をよく考え、名前に負けない立派な人になれるよう、日頃から勤行・唱題に励み、お寺に参詣して、がんばってまいりましょう。