平成23年8月16日付
                     お祭の参加は謗法ですか
 皆さん、こんにちは。暑い日が続いていますが、充実した夏休みを過ごしていますか。
 先月末に行われた少年部合宿には、多くの人が参加して、大成功をもって終了しました。参加したお友達は、御法主上人猊下の御指南を体し、その後も勤行・唱題をしっかりと行い、有意義な毎日を過ごしていると思います。
 さて、今回は「お祭」についてお話しをしたいと思います。

日本のお祭について
 日本の風習では、お盆や稲の収穫に合わせて、様々なお祭が全国各地で行われています。皆さんの住んでいる町や地域でも、神社に提灯が飾られるなど、お祭の準備がされていませんか。
 お祭では、綿菓子や焼きそばなどのおいしい食べ物や、金魚すくいなど、楽しそうな出店が立ち並んでいます。お友達から「一緒にお祭に行かないか」と誘われたら行ってみたいと思うかも知れませんが、神社(謗法)で行われる祭に参加してはいけません。それは謗法です。
 お祭とは、どのような意味か知っていますか。「まつり」の本来の意味は、神を祀る儀式を言います。
 現在では、「夏祭」や「市民祭」など、名称だけを用いた夏の娯楽イベントを意味する場合もありますが、何らかの形で神社が関わっている場合が多くあります。神社に行かなくても、街中に山車や御輿を目にすることがあるのは、神を祀る儀式の一つだからです。

「神」とは何か
「神」とは本来、山や海で起こる自然現象、巨木や巨石などを、「何か得体の知れない霊力・能力を持っているもの」と感じ、そこに精霊や神が宿っていると想像したことが始まりと言われています。これらの想像と、仏教に出てくる神が融合し、やがて崇拝の対象となって信仰へと発展したのです。
 実際に神社などを見てみますと、多種多様な神が祀られています。例えば、先ほどお話した自然現象を対象とする自然神であったり、経典や神話に登場する神であったり、歴史上の人物を神格化して祀るなど、実に様々です。
 世の中の多くの人は、この「神」に対しての稲の豊作や豊漁を祈り、また病気快復や勉学向上に役立つと信じてお祈りをしています。
 しかし、いくら「神」に祈りを捧げても、何の功徳利益もないことを、私たちは知らなくてはなりません。

正法のない所に善神なし
 仏教で説かれる神は、人々を守護する力を持っていますが、個々の神々を崇拝の対象として説かれていません。したがって、神を敬うのは当然ですが、礼拝し信仰する対象とはならないのです。
 この神々の用きについて、法華経の『安楽行品』に、
「諸天善神は昼夜に亘って、常に法のために、しかもこれを衛護する(趣意)」(法華経三九六)
とあり、さらに『陀羅尼品』には、
「法華経を読誦し、受持する者を擁護し、生命力の衰えや病気を除く(趣意)」(同五七九)
と説かれています。これは、諸天善神が法華経と法華経を受持読誦する人々を守護すると仏様に誓われていることを、明かされています。故に、仏と神は主従関係にありますから、神のみを信仰するのは本末転倒になるのです。
 大聖人様は『立正安国論』に、
「世の中の人々が正法に背いて悪法に帰依してしまっている。故に善神は、この国土を捨てて去ってしまい、聖人も所を辞して還ってこない。この隙間に魔神や悪鬼が来て住みつき、世の中に災難を起こすのである(趣意)」(御書二三四)
と御指南あそばされているように、正しい教えを信仰しない神社に、法華経とその行者を守護する善神がいるはずがありません。そこには、世の中に災難を引き起こす、悪鬼魔神が住みついているのです。
 ですから、神社に行き、神社に関連する行事の一つである「お祭」に参加をすることは、知らないうちに邪神を増長させ、正法の用きを妨げることになり、自らの命に罪障を積んでしまう結果になるのです。

諸天善神の加護を戴くには
 私たちは、毎朝の勤行の時に、初座の観念文で「諸天善神」に対し奉り法味(正法の南無妙法蓮華経)を捧げています。これは、私たちが食事をして力を蓄えるように、善神も法味を食して威力を発揮するからです。
 大聖人様は『日女御前御返事』に、
「此等の仏・菩薩・大聖等、総じて序品列座の二界・八番の雑衆等、一人ももれず此の御本尊の中に住し給ひ、妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる。是を本尊と申すなり」(同一三八七)
と御指南されています。
 ですから、御本尊様の前に正座し、家族そろって一生懸命に読経・唱題申し上げることが大切であり、これによって一人ももれることなく、御本尊様から諸天善神の加護を戴くことができるのです。

 夏休みは間もなく終わりですね。自分に与えられた時間を無駄に過ごすことなく、一遍でも多くお題目を唱え、元気に新学期を迎えましょう。