平成23年2月16日付
 

 皆さん、お元気ですか。
 前回は、大聖人様の御誕生についてお話しましたが、今回「日興上人様の御誕生日は、何月何日ですか」という質問がありましたので、日興上人様の御事蹟をお話したいと思います。

日興上人様の御誕生日は三月八日
 日興上人様は、寛元元四(一二四六)年三月八日、甲斐国大井荘鰍沢(現在の山梨県富士川町)に御誕生なされました。父の名は、大井橘六、母は由比家出身の女性です。
 当時の三月八日は、現在の暦では四月二日に当たります。大聖人様が御生まれになった季節とほぼ同じです。緑が萌え出るたいへん気候のよい季節に御生まれになりました。

大聖人様への常随給仕
 日興上人様が十三歳の時、大聖人様は『立正安国論』を御書きになる準備のため、鎌倉から岩本(静岡県富士市)の実相寺に赴かれました。この時、実相寺において勉学に励まれていた日興上人様は、大聖人様の御姿を拝され、入門を願い御弟子となられたのです。
 それからは、常に大聖人様に随って御給仕(常随給仕)を尽くされました。
 大聖人様は、弘長元(一二六一)年に伊豆、文永八(一二七一)年に佐渡と、二度の御配流を受けられましたが、日興上人様は大聖人様の御側から離れることなく、困難を共にされました。
 このように、日興上人様はいつも大聖人様の御供をされていました。そのために、日興上人様は、南無妙法蓮華経の教えを正しく信じ、理解することができたのです。
 特に「大聖人様が仏様である」と信じ拝することができたのも日興上人様です。その他の弟子や信徒には、仏様と拝することができなかった者が大勢いました。

命がけの折伏
 日興上人様は、文永十一年五月に大聖人様と共に身延に入られてからは、甲斐(山梨県)や駿河(静岡県)地方に南無妙法蓮華経の教えを弘められました。
 その折伏は、熱原(富士市)にある滝泉寺の僧侶や近くに住む農民にも拡がり、その結果、多くの僧俗が入信しました。この状況がおもしろくないと感じた滝泉寺を取り仕切っていた行智は、この大聖人様の門下を潰してしまおうと考えました。
 弘安二(一二七九)年九月二十一日、行智は農民らが稲刈りをしているところに、武士たちを集めて押しかけ農民たちを襲い、南無妙法蓮華経の教えを捨てさせようとしたのです。さらに、神四郎・弥五郎・弥六郎を含む二十名は幕府に連れて行かれました。
 日興上人様はすぐに大聖人様に御報告されました。そして、大聖人様の仰せのままに門下の団結を固められ、幕府に対して真実を訴えられたのです。
 ところが、幕府の要人・平左衛門尉は、捕らえた農民に対して「南無妙法蓮華経の教えを捨てて念仏を信じなさい。さもなくば重たい罪になるぞ」と脅迫しました。しかし、農民たちは一切怯むことなく「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と御題目を唱えました。
 これに、怒り狂った平左衛門尉は、ついに神四郎・弥五郎・弥六郎の三人の首を切ったのです。
 熱原の農民は、このようなたいへんな状況の中にあっても、謗法を恐れ退転することなく、日興上人様の御指導のもとに大聖人様の仏法を貫き通したのです。
 この法難を「熱原法難」と言います。奉安堂の前に熱原の三烈士の碑があり、その功績を称えられていますが、今なお信心のお手本ともいうべき出来事として、私たちは学ばなければなりません。
 また、この法難は大聖人様が本門戒壇の大御本尊様を顕わされる大きな機会となりました。
 このように日興上人様の折伏は、常に大聖人様の仰せのままに行われ、多くのご信徒にも大聖人様の御書を読み聞かせて励まし、布教が進められていたことが拝されます。
 日興上人様の影のごとく、常に御供をされ、大聖人様の影のごとく、常に御供をされ、大聖人様の御姿を拝されていらっしゃいました。その中で得られたことは、「大聖人様の南無妙法蓮華経の教えが一番正しい」「大聖人様は仏様である」という確信です。その確信のもとに日興上人様の御振る舞い(行動)があるのですから、私たちは日興上人様の御教導をしっかりと拝することが大切です。
 また、今日において大聖人様の仏法を正しく御持ちされているのが御法主日如上人猊下です。
 皆さんは、御法主上人猊下の御指南を拝読していますか。御指南は、私たちの信仰の指針となるものですから真剣に拝読してください。
 そして、御指南に基づいてなされるお寺の御住職・御主管の御指南のままに信心に励みましょう。