平成30年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 6

 父母の入信

前回学んだように、日蓮大聖人は建長五(一二五三)年四月二十八日に、清澄寺持仏堂の南面において初転法輪をなされました。そして、地頭東条景信から命を狙われましたが、兄弟子の浄顕房・義浄房の機転により、危地を免れたのでした。
 これより向かわれようとしている行き先は、武家の都である鎌倉です。しかし、その前に大聖人には、まだ為すべきことがありました。父貫名次郎と母梅菊への折伏です。今、この機会を逃しては、二度とご両親が入信する時は来ないかも知れないのです。
 とはいえ、既に初転法輪での清澄山一山の騒動はご両親の耳に入っていました。二人は、我が子である大聖人の身を案じ、できることならば決心を翻し道善房に謝り、清澄寺の住僧として生きるようにと懇願されたのです。
 二人の思いやりに触れられた大聖人でしたが、情に流されて謗法の邪宗教に戻るべきではありません。大聖人は法華経こそが三世諸仏の本懐の経典であり、就中、南無妙法蓮華経と唱えることこそが成仏の大直道であることを説かれました。
 貫名次郎と梅菊は、大聖人の大確信に満ちた尊容に触れ、また理路整然と説かれた教えを聞き、直ちに念仏を捨てて法華経に帰依をすると決意されたのです。
 この時、大聖人は自らの日蓮の御名から一字ずつをとり、父貫名次郎には「妙日」、母梅菊には「妙蓮」と法名を授けられました。ここにご両親の入信が成り、大聖人は固い決意を胸に鎌倉へと御出発なされたのでありました。


 松葉ケ谷の草庵

 鎌倉に入られた大聖人は、その草庵を名越の松葉ケ谷に構えられました。現在、草庵跡を標榜する日蓮宗寺院がありますが、実際の場所は不明です。
 ともあれ、当時の鎌倉は武家政治の中心地であり、京都朝廷に対するもう一つの都とも言うべき場所でした。
 幕府の内紛を見て、後鳥羽上皇が兵を挙げた承久の乱が鎮圧されてより、幕府の支配は東国から日本全国へとその規模を拡大していきました。
 この急激な権力の伸張に伴い、政治機関として評定衆による合議制や、西日本を管轄する六波羅探題の設置、領家と地頭の争いや様々な訴訟の基準をまとめ、最初の武家法である『御成敗式目』を作るなど、行政・訴訟などの整備が進みました。
 一方で、鎌倉には自身の訴訟や幕府に仕えることを目的として、京から多くの人々が下ってくるようになりました。その影響で、鎌倉は京の政治と文化を取り入れていくことになります。
 北条時頼は後嵯峨上皇の皇子宗尊親王を将軍に迎え、鎌倉を武家の首都として整備し、その権力を確固たるものにしました。その一つの表われが鎌倉大仏と建長寺の創建でした。
 この頃、それまで木造だった大仏を、大陸から導入した銅銭と新技術で鋳造し、新しくしたのです。
 また能忍や栄西により禅宗が既に伝わってはいましたが、新たに宋から蘭渓道隆を招いて、禅院として建長寺を建立し、武士に禅宗信仰が広まります。直観的に悟りが得られる、難しい教義書は必要ないという禅宗の教えは、武士たちに受け入れられていったのです。
 このような新来の信仰とは別に、天台宗の山門、寺門、真言宗広沢流などが鎌倉に進出し、特に密教僧ら鶴岡八幡宮寺や勝長寿院などに入り、北条氏や幕府との縁を強化していきます。
 さらに西大寺叡尊の弟子忍性良観が常陸の清涼院に住み、鎌倉の諸寺や北条氏と交渉を持つようになっていました。やがて良観は、弘長二(一二六二)年に多宝寺の住持となり、鎌倉への進出を果たします。
 このように幕府の権力の伸張に伴い、宗教権門の鎌倉への進出、また禅宗の流行があり、まさに鎌倉は一大宗教都市の様相を呈していました。
 しかしこれらの諸宗は、実際には幕府や北条氏と結託し、その権力を背景に堕落して人々の歎きとなっていたのです。
 例えばまず、延暦寺(山門派)と園城寺(寺門派)の争いです。機縁は、宝治合戦の後、三浦泰村と親交のあった山門派の定親が鶴岡八幡宮寺を解任となり、寺門派の隆弁が社務になったことです。園城寺は延暦寺と、天台宗の正統を争い、自分の所に戒壇を建立することを宿願としていました。そのたびごとに延暦寺が強訴や僧兵によって阻止していたわけですが、隆弁が北条氏と親交を結んだことにより、状況が一変します。
 勅許を与える側の朝廷にとっては、園城寺の背後に幕府があると見、延暦寺も幕府の介入を考慮に入れなくてはならなくなり、より対立は激化していったのです。延暦寺・園城寺のいずれにあっても末法には無用の宗旨ですが、まさに末法闘諍堅固の様相そのものでした。
 次に蘭渓道隆を招いて鳴り物入りで建立された建長寺でしたが、その実態は大聖人の次の御書に表わされています。
「但し道隆の振る舞ひは日本国の道俗知りて候へども、上を畏れてこそ尊み申せ、又内心は皆うとみて候らん」(御書一二五五n)
「建長寺は所領を取られてまどひたる男どもの、入道に成りて四十・五十・六十なんどの時走り入りて候が、用は之無く、道隆がかげにしてすぎぬるなり」(同一二五六n)
 つまり、建長寺は所領を奪われた無頼者たちが僧になって集まり、道隆の庇護下で暮らしていたのであり、またその道隆自体も、民衆は時頼の庇護を受けているから尊んでいるのであり、内心では疎んじていたのです。
 三に忍性良観は、慈善事業として道や橋を作ったと世間では評価されていますが、実態は人々を苦しめるものでした。
 その実情が判るのは次の御書です。
「而るに今の律僧の振る舞ひを見るに、布絹・財宝をたくはえ利銭・借請・を業とす。教行既に相違せり。誰か是を信受せん。次に道を作り橋を渡す事、還って人の歎きなり。飯島の津にて六浦の関米を取る、諸人の歎き是多し。諸国七道の木戸、是も旅人のわづらひ只比の事に在り、眼前の事なり、汝見ざるや否や」(同 三八四n)
 当時の律僧は財宝を蓄えてそれを利用して金融業を営み、また道や橋を作って税を取って、かえって人々の歎きとなっていたのです。
 しかも良観は、後に大聖人に迫害を加える際に権力者の夫人たちに讒言を行っており、幕府権力者と結びついて、その権力を頼みとしていたことが判ります。


 辻説法

 このように鎌倉の宗教界は、幕府権力者と密接に結びついていたのですが、そこへ日蓮大聖人が折伏を開始されたのです。
 現在も鎌倉に大聖人の辻説法跡と伝える場所がありますが、往来の多い街角に立たれて道行く人々に法を説かれたのです。
 後年、『中興入道御消息』に、
「去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間、退転なく申しつより候事、月のみつるがごとく、しほのさすがごとく、はじめは日蓮只一人唱へ候ひしほどに、 見る人、値ふ人、聞く人耳をふさぎ、眼をいからかし、口をひそめ、手をにぎり、はをかみ、父母・兄弟・師匠・ぜんうもかたきとなる」(同一四三一n)
と記されているように、この説法を聞いた人々は、あるいは汚らわしいとばかりに耳を塞ぎ、あるいは怒気をはらんだ目で睨みつけ、口を潜めて文句を言い、怒りに手を握りしめて歯を噛みしめる有り様だったのです。
 そのため、たびたび、その説法の場を追われましたが、それでも破邪顕正の師子吼は止むことなく、人々に法を説き続けられたのです。
 こうした布教が粘り強く続けられるうちに、少しずつ草庵を訪れる人々が現われ、大聖人に帰依をする人々が増えていきました。
 この最初期に帰伏した門弟には、下総の印東祐昭の子で、一説に大聖人叡山遊学中の知己と伝えられる弁殿(成弁、後の日昭)、またその甥の筑後房(後の日朗)、三位房、大進阿闍梨、武蔵公などがいます。
 また信徒には、富木常忍をはじめとして、四条金吾、工藤吉隆、池上宗仲、比企能本らが入信したと伝えられている他、南条時光殿の父兵衛七郎も、いつとは定かではないものの、早期の入信と考えられています。
 こうした信仰の広がりは、大聖人御自身による折伏を中心に、信徒の俗縁をたどったものと拝され、草創期の僧俗一致の折伏行と拝されるのです。