平成30年7月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 4

 修学 2

 今回は、比叡山での修学をひとたび終えられ、次いで奈良、京都等での修学を経て、宗旨建立に至る経緯と、そのご決意について学んでいきます。

 諸国遊学

 三年にわたり比叡山で修学された蓮長は、『妙法比丘尼御返事』に、
「日本国に渡れる処の仏経並びに菩薩の論と人師の釈を習ひ見候はゞや(中略)国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に」(御書一二五八n)
と述懐されているように、比叡山での研鑚に加えて、その他諸宗の教えについても学ぶため、寛元四(一二四六)年、二十五歳の時に比叡山を下り、奈良や京都などの諸宗の寺々へ研鑚の歩みを運ばれました。
 比叡山を下って初めに向かったのは、三井の園城寺(滋賀県大津市)でした。
 園城寺は、円珍によって開かれた天台宗寺門派の寺院で、法華経を重んじながらも、現実には真言の教えが深く入り込んだ宗派となっていましたが、蓮長は研鑚のために円珍の著述を閲覧されました。
 次いで京都に向かい、泉涌寺にて宋版の大蔵経を閲覧し、その足で臨済宗の弁円、曹洞宗の道元を訪ね、禅宗の教えについて論談されたと伝えられています。
 さらに奈良へ向かった蓮長は、奈良時代に繁栄を極めた南都六宗(倶舍宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗)の教えについて研鑚されます。
 奈良にあった七大寺(興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺)には、仏典や書籍が多く収蔵されており、特に宝治元(一二四七)年、蓮長は七大寺の中の薬師寺において大蔵経を閲覧されました。
 その翌年の宝治二年には、当時、天皇の庇護によって隆盛を極めていた、真言宗の総本山である高野山金剛峰寺に向かい、真言の教えを徹底して研鑚し、さらに真言宗の東寺や仁和寺にも足を運ばれ、真言宗各派の教えについて研鑚されました。
 このように、各宗の教義を研鑚される一方で、歌人藤原(冷泉)為家のもとで歌道や書道なども修学されたと伝えられています。
 建長二(一二五〇)年には、聖徳太子が建立した四天王寺に入られ、聖徳太子の偉業を偲びつつ、所蔵される仏典や書籍を閲覧され、二年後の建長四年には、修学の総仕上げとして再び比叡山と園城寺を訪れて、一切経の閲覧に専念されたのです。

 自覚と決意

 『妙法比丘尼御返事』に、
「此等の宗々枝葉をばこまかに習はずとも、所詮肝要を知る身とならばやと思ひし故に、随分にはしりまはり、十二・十六の年より三十二に至るまで」(同)
と仰せられています。
 先述のように、十二歳より三十二歳に至る二十年間、ひたすら諸宗の修学研鑚に励んだ蓮長は、仏法の根本的な真理を理解すると共に、当時の仏教界の実情を知り、自らが立てた誓願に対する確信を深めました。
 ここで、蓮長が二十年間の修学研鑚において得たことを挙げると、
一つには、大集経に示される「後五百歳白法隠没」の経文の的中と「法華最第一」の深い確信でした。
 比叡山は、表面上は法華経を重んじるも、爾前権教である親近の教えに誑かされ、法華経の正義を違えている。また、禅宗や浄土宗は新興勢力として、主師親三徳兼備の釈尊の仏法を否定し、社会に悪法を定着させつつあり、その他律宗等の諸宗は、ことごとく時機を違えて釈尊の本義に背いている。これらの邪宗邪義が世の中に弘まっていることがすべての災いの原因であり、この災いを鎮め国家に安泰をもたらすためには、釈尊出世の本懐たる法華経によるしかない、ということでした。
二つには、末法に弘まるべき教えは法華経の肝心である妙法蓮華経の五字であり、この妙法蓮華経を弘めることこそ地涌上行菩薩の使命であること。そして、折伏をもって末法濁悪の世に苦しむ衆生を救済しなければいけないと自覚した自らの立場こそ、まさに上行菩薩に他ならない、ということでした。
 しかしまた、法華経の『勧持品第十三』には、
「濁劫悪世の中には 多く諸の恐怖有らん 悪鬼其の身に入って 我を罵言毀辱せん 我等仏を敬信して 当に忍辱の鎧を著るべし 是の経を説かんが為の故に 此の諸の難事を忍ばん 我身命を愛せず 但無上道を惜む」(法華経三七七n)
とあるように、末法に法華経を弘める者には、様々な迫害が加えられることが説かれているのです。
 蓮長は、自らを法華経の行者として、また上行菩薩の再誕として、その使命を尽くすためにどのような厳しい迫害があろうとも、国家の災難と民衆を苦悩から救わんとする大慈悲心より、法華経を弘めなければならないとの強い決意をますます強固なものとして、身命を惜しまず法華経を流布していくことを強く決意されたのです。

 安房へ帰郷

 かくして鎌倉、比叡山、園城寺、高野山、南都六宗などの諸宗各派の修学研鑚を終えられた蓮長は、建長五(一二五三)年の春、師の道善房や法兄である浄顕房、義浄房、また父母の待つ安房へ帰られました。、
 そして三月二十二日より、清澄寺の一室にこもり、地涌上行菩薩の再誕として、身命をかけて法華経を弘通し折伏を行じていくための思索を重ねられたのです。
 後年述作の『開目抄』には、法華経の経文に示されるように、いかなる迫害を受けようとも、妙法蓮華経の大法を弘通しなければならないとの思いを、
「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし。(中略)今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」(御書 五三八n)
と述懐されています。
 すなわち、邪宗邪義の破折を一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠より反対され、迫害を受けると共に、国家や幕府からの迫害も必定である。しかし、言わなければ無慈悲である。法華経や涅槃経に照らし合わせると、言わなければたとえ今世では何事もなくとも、来世では必ず無間地獄に堕ちることが明らかである。また言うならば、三障四魔が必ず競い起こってくることがはっきりと判った。言うべきか、言わないで過ごすべきか。やはり言うべきであると覚悟を決めた、と仰せです。
 この御文には、折伏をもって妙法蓮華経の大法を弘通するという強い信念と、強盛な菩提心を起こして絶対に屈しないという不退の誓願が明かされていて、宗旨建立直前の一大決意と拝されるのです。
 次回は、宗旨建立について学んでいきます。