平成30年6月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 3

 出家・修学 1

 初回から二回にわたって日蓮大聖人の御誕生と幼年期について詳しく学んできました。
 どのようなテーマをもとに学んだのかというと、まず大聖人が御誕生になられた末法という時代について、二番目に御誕生当時の世相について、三番目は御誕生の日について、四番目は大聖人のご両親について、五番目は大聖人が御誕生になられる前に見られたご両親の霊夢と実際に御誕生になられた時の不可思議な瑞相について、そして六番目には、大聖人の幼年期についてです。
 今回は出家から修学に至るまでの時期について学んでいきます。

 立願・入門

 善日麿と名づけられた大聖人は、自然豊かで温暖な安房の地において、父母の深い慈愛と教育によって健やかに成長されました。
 しかしながら、世間では、悲惨な事件が相次ぎ、大風雨や干ばつなどの天災によって大飢饉も発生し、世の中の混乱の度は深まるばかりでした。聡敏な善日麿は、承久の乱やうち続く天災や人災の凶相は何によるのかという疑問を持つに至り、これらの社会の混乱を解決するため、
「生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼり」(御書一二七九n)
とあるように、天福元(一二三三)年十二歳の時、「日本第一の智者」となるために学問を志して、安房片海村にほど近い清澄寺の道善房のもとへ入門されました。
 入門後の善日麿は、主に兄弟子の浄顕房・義浄房の二人から、一般的な教養と仏典を中心とした読み書きを学ばれました。
 これは、後に浄顕房と義浄房に与えた『報恩抄』に、
「各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします」(同一〇三一n)
と述べられていることからも判ります。
 善日麿は、生来の才能と求道心によって、また師匠道善房や、兄弟子の浄顕房や義浄房たちの教育によって、さらに智解を深めていかれました。
 このような修行の中にあって、善日麿は清澄山に登られた当初から、「日本第一の智者となし給え」との願を立てられ、十二の年より清澄寺の虚空蔵菩薩に祈念されました。
 そしてこの大願を立てられた理由について、幼少の頃を述懐された御書に基づき、三点に集約して次に挙げます。
 その一つ目は、下剋上とも言うべき承久の乱において、天皇方は鎮護国家を標榜する天台真言等の高僧らに命じ、調伏の祈祷を尽くしたのにもかかわらず惨敗し、三上皇が島流しに処せられてしまったのは何故か。
「我が面を見る事は明鏡によるべし。国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」(同一三〇一n)
とあるように、国家の盛衰も社会の平安も、その根源に仏法が大きく影響する。故に「日本第一の智者」となり、仏法の真髄を究めなければならないと大願を立てられたこと。
 二つ目には、『妙法比丘尼御返事』に、
「此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るゝ身とならんと思ひて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす」(同一二五八n)と述べられているように、念仏を唱える行者の苦悶の臨終の姿、悪相を目の当たりにしたことにより、念仏に対する深い疑問を抱かれたこと。そして、そのことによって諸教の肝要と諸宗の子細を究めるために誓願されたこと。
 三つ目には、『報恩抄』に、
「何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ」(同一〇〇〇n)
と述懐されている通り、釈尊の説いた教えが各宗に分かれ、それぞれ優越性を主張しているが、釈尊の本意はただ一つなのではないか、その疑問を晴らすために仏法を究めたいと願われたことです。

 得 度

 善日麿は先に挙げた疑問の解決と仏法の真髄を究めるために、得度を決意されました。
 そして嘉禎三(一二三七)年、十六歳の時、道善房を師として得度し、名を是聖(生)房蓮長と改め、今まで以上に日々の修行に精進し、昼夜を分かたず仏法の研鑚に励まれました。
 この頃には、安房随一の名刹である清澄寺とは言っても、蓮長の仏法に対する根本的な疑問に対して、師の道善房や浄顕房・義浄房も蓮長に教えるものはなく、その上、清澄寺所蔵の経巻典籍もすべて読み尽くされていました。

 修 学

 そして二年後の春、清澄寺において学び尽くした蓮長は、さらに深い研鑚の志を抱いて、諸国へ遊学の旅に立たれました。この遊学は後年、
「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習ひ回り候ひし程に云々」(同一二五八n)
と述べられているように、蓮長は出家以来の大願を果たすべく、より一層深い研鑚の志を懐き、多くの仏典・書籍を求め、政治・経済の中心地であった鎌倉をはじめ、当時の仏教の中心地とも言うべき比叡山延暦寺や京都・奈良の各宗の中心寺院などを歴訪される旅へ発たれました。時に延応元(一二三九)年の春、十八歳の時で、諸国遊学は十四年間にもわたりました。
 初めに向かわれたのが、政治・経済の中心地であった鎌倉です。鎌倉では、北条幕府の庇護により、既に禅宗・浄土宗をはじめ各宗各派の大寺院が建立され、隆昌を誇っていました。まずは、念仏・禅宗の法義の検討を加え、それらの宗の本源を尋ねる必要がありました。そして仁治二(一二四一)年には、鶴岡八幡宮に蔵する大蔵経も閲覧されました。『南条兵衛七郎殿御書』に、「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は日蓮らは十七八の時よりしりて候ひき」(同 三二六n)
と述懐されていることからも、当時既に念仏をはじめ諸宗の教義に精通されていたことが判ります。

 比叡山へ

 そして、鎌倉で遊学すること四年、仁治三年二十一歳の時、さらに多くの典籍を閲読し、仏法の奧義、法華経の真髄を討究するために、蓮長は日本仏教の中心とも言うべき比叡山延暦寺に向かわれました。
 比叡山に登った蓮長は初め東塔の円頓坊に住し、後には横川の定光院にも住まわれたと伝えられています。
 蓮長は当時の叡山三塔(東塔・西塔・横川)の総学頭職・大和庄俊範法印に師事し、法華の奥義、天台の教義などを研鑚されました。
 蓮長にとって、研鑚の目的は単に天台の教義を習学することではなく、法華一乗の奥旨と経証を確認し、併せて当時の比叡山の実態を知ることでありました。
 強い求道心と大願を抱く蓮長は機会あるごとに高僧や学僧たちと論議を交え、伝教大師の遺風を忘れて権実雑乱の邪義に堕した比叡山の仏教を厳しく論破されました。そのため、蓮長の学徳と名声は次第に比叡山の内外に響きわたっていったのです。
 次回は、諸国遊学の続きと宗旨建立に至る経緯について学んでいく予定です。