平成30年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          日蓮大聖人の御生涯 1

 御誕生 1

 宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節まで、いよいよ残り三年を切りました。
御法主日如上人猊下は、
「三門や五重塔が壮麗に復元修復され、また、その他の事業が成し遂げられたとしても、肝心の法華講員八十万人体勢の構築が達成できなければ、名実共に大聖人御聖誕八百年を慶祝申し上げることにはならず、真の御報恩とはならない」(大白法 九二六号)
と仰せられ、また、
「大慶事まで、あと三年。これからの三年間が、私どもにとって最も大事な時期になる」(同 九七四号)
と御指南あそばされています。
 この大佳節を迎えるに当たり、大聖人の御聖誕を慶祝申し上げる意義を、一人ひとりがしっかり再認識することが大切です。
また、『四菩薩造立抄』に、
「日蓬が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(御書 一三七〇n)
と御示しの如く、私たちは大聖人の御振る舞いを鑑として、信心修行に励まなければなりません。
 そこで今回からは、大聖人の御生涯について学んでいきたいと思います。

 正像末の三時

 釈尊は、自身が入滅した後の仏法流布の様相について、正法時代・像法時代・末法時代という三つの時代(三時)があることを諸経典に説かれました。説かれる経典によって各時代の長さに差が見られますが、時代の推移による仏法流布の傾向と相違にこそ主意があり、年数にのみ執われてはいけません。 その上で大聖人は、大集経に
説かれる五箇の五百歳に基づく、正像各千年説を諸御書に用いられています。
 三時のうち「正法時代」とは、釈尊の教法・修行・悟り(証果)が正しく具わっており、教えを求める人々も過去世において仏と縁のある機根でしたので、正しく修行をすることで悟りに至ることができる時代です。
 次に「像法時代」は、教法・修行が伝わるものの悟りに至ることはできず、正法に像(似)た時代です。経典の飜訳や仏塔・寺院の建立は盛んで、形式は重んじられますが、仏法の教えが希薄になり、破戒の者や教えを悪用する者が次第に多くなりました。
 そして「末法時代」は、釈尊の教法が力を失い、正しい修行も悟りもないため邪義の蔓延による人心の荒廃が起こり、それに伴う世相の混乱によって争いの絶えない時代です。
 大聖人が御誕生されたのは、まさにこの濁悪の末法時代の初めだったのです。
 当時の日本仏教界も末法と呼ぶにふさわしく、鎌倉仏教と言われる複数の新たな宗派が乱立する事態となっていました。
 かつて像法時代の導師である伝教大師(最澄・七六七〜八二二)が、平安時代初期に比叡山に日本天台宗を建立し、南都六宗の邪義を破折して法華一仏乗を宣揚されました。
 しかし、同時期に弘法大師(空海・七七四〜八三五)が真言宗を立て、法華経を戯論と下す邪義を立てました。そして、伝教大師の死後、真意を見失った弟子によって天台宗は密教を取り入れてしまいます。以後、比叡山から法華一乗の気風は衰えて諸宗兼学の地となり、念仏宗・禅宗等が派生する原因ともなったのです。

 御誕生当時の世相

 大聖人が御誕生あそばされた頃、十二世紀から十三世紀にかけての世界はどのような様相だったのでしょうか。
 アジアでは、チンギス=ハンよるモンゴル帝国が侵略を進め、その最大領域はユーラシア大陸の大半に及び、十三世紀が「モンゴルの世紀」と呼ばれるほどの勢力を誇りました。それは同時に、世界が侵略と殺戮の時代であったことを意味しており、まさ「闘諍堅固」との御言葉そのままの
時代だったのです。
 モンゴル帝国の侵略が東ヨーロッパにまで及んだその頃、ヨーロッパ諸国は、十四世紀まで続く停滞期にありました。
 特に十一世紀末から、イスラム教徒からの聖地奪回を謳い文句とする十字軍の遠征によって、虐殺・略奪行為等の悲劇が繰り返され、中には資金繰りのために同じキリスト教国を攻撃することもありました。
 一方、文化の面でも十二世紀のヨーロッパは、文化復興の兆しに対して歴史家から再評価の動きはあるものの、これもイスラム教圏からの文化接収の影響とも見られています。このように仏法とは縁の薄いヨーロッパにあっても社会会全体が宗教と戦乱に振り回されていた様子が伺えます。
 同じ頃、日本はどうかといえば、平安末期から鎌倉時代にかけて、藤原氏の摂関政治から院政、源平の争乱を経て武家の時代へと政治権力が大きく変遷していきました。鎌倉幕府が開かれてからも、梶原景時の変、建仁の乱、比企能員の変、畠山重忠の乱、牧氏の変、和田合戦と内乱が続き、源氏将軍も三代で途絶えました。
 特に大聖人御誕生の前年、承久三(一二二一)年に起こった「承久の乱」は、武家政権による全国支配を決定づけるものでした。
 兵乱は、五月十五日の院宣から
わずか一カ月、鎌倉方の圧倒的な勝利をもって終結しましたが、武士たちによる放火・略奪行為によって、京の町は未だかつてない惨状を呈していたと言います。
 結果として、真言密教による幕府調伏の祈祷を尽くした天皇方を、臣下であるはずの武士が破り、三人の上皇を流刑に処すという、国の檻秩序に悖る前代未聞の処置が行われました。
 大聖人は『諸経と法華経と難易の事』に、
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(同一四六九n)
と仰せられています。
 まさにこの御金言の如く、末法に入り、釈尊の仏教が権実雑乱の様相を呈し、人々は法華経に背く諸宗の悪法を信仰し、世間が闘諍の暗黒時代に至ったのです。さらには、ひとたび兵乱が起これば、互いに諸宗の悪法をもって寺社に戦勝を祈らせるという、悪循環に陥っていました。
 こうして、悪世末法の様相が如実に現われた大事件が承久の乱だったのです。そしてその翌年、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人が御誕生あそばされたのです。

 ご両親の瑞夢

 大聖人のご両親については本宗相伝の『産湯相承事』に、「東条の片海に三国大夫と云ふ者あり」(同一七〇八n)
と、また、
「悲母梅菊女は(童名の御名なり)の畠山殿の一類にて御坐す」(同n)
と示されており、父君は三国大夫(重忠)、母君は梅菊というお名前だったことが判ります。
 三国氏、平の畠山氏という姓から、家系についての研究もされていますが、今なお、はっきりとは判っていません。
 また同書に、母君の懐妊に際し、ご両親がそれぞれ不思議な夢を見られたことが記されています。
 すなわち、ある日、母君はあまりの不思議さに驚き目覚めた夢の内容について、夫の三国大夫に次のように語りました。
「比叡山の山頂に腰をかけて、近江の湖水(琵琶湖)を用いて手を洗ったところ、東の富士山から太陽が昇ってきて、その日輪を自身の胸に懐いた(趣意)」(同n)
 この夢の内容を聞かれた父君も、自らが見た不思議な夢について語られます。
「虚空蔵菩薩が、眉目秀麗な幼子を肩において現われた。 そして『この人こそ上行菩薩である。人々に真の財宝を与え功徳を授ける大菩薩であり、命あるものを三世(過去世・現在世・未来世)に亘り永遠に救済せられる大導師である。この子をあなたに託そう』と告げられた(趣意)」(同n)
どちらの夢の情景も、他に比べようもない荘厳さを具えた内容です。釈尊の母である摩耶夫人が懐妊されたとき、やはり太陽を懐く夢を見たと伝えられていますが、大聖人のご両親の夢は、末法濁悪の世を照らす本仏出現を暗示する夢だったのです。
 次回は引き続き、大聖人御誕生時の瑞相や、出生の家柄について学んでいきましょう。