平成30年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          中興の二祖(総本山26世) 日寛上人さま B

                 ご生涯 (下)
 今回は、総本山第二十七世日養上人が御遷化後、再び猊座に登られてから御遷化に至るまでの御事蹟を拝したいと思います。
 
  大坊への再住

 日寛上人は在位三年の後、享保五(一七二〇)年日養上人に一切を付嘱し、学寮入られて教学の研鑽、御書の講義、著作に専念されました。
 しかし日養上人が在位四年、五十四歳にて御遷化されると、再び日寛上人が猊座に登り、大坊にお入りになられました。

  『六巻抄』の再治

 享保十(一七二五)年の春、たまたま笈〔※@〕の中に納めていた『六巻抄』未治本を開いたところ、粗略な箇所があったため、添削を行い再治を加えられました。ここに日寛上人畢生の書『六巻抄』が完成したのです。
『三重秘伝抄第一』『文底秘沈抄第二』『依義判文抄第三』『末法相応抄第四』『当流行事抄第五』『当家三衣抄第六』の六巻を合わせて『六巻抄』と名付けられました。
 『三重秘伝抄』は、一念三千の法門を、権実・本迹・種脱と次第に相対し、法華経の寿量品の文底に秘沈された真の事の一念三千の大法こそが、末法に弘通されるべき法体であることを示されています。
 『文底秘沈抄』は、『三重秘伝抄』によって明かされた、真の事の一念三千の法体を本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の三大秘法に開いて、三大秘法の内容を具体的に明示されています。
 『依義判文抄』は、三大秘法と一代聖教との開合の意義から、文底の深義より立ち返って見れば、法華経の文面や天台の文献にも三大秘法の依拠となる明文があることを示されています。
 『末法相応抄』は、要法寺日辰の法華経一部読誦と色相荘厳の仏像造立の邪義を破し、末法の修行は妙法五字の受持唱題の一行であること、また末法に信受すべき本尊は人法一箇・事の一念三千の大漫荼羅であることを述べられています。
 『当流行事抄』は、当門流の正しい修行は、文底下種の立場から唱題を正行に、方便・寿量の両品を助行として極誦することを示され、特に唱題の意義は化導の法体である久遠即末法の下種三宝に対する信行であることを述べられています。
 『当家三衣抄』は、当家と他門との法衣の異なりを示し、実際に著された大聖人の法衣の形状を挙げて当家の法衣の正統性を証明されています。そして当家の三衣である白五条の袈裟・薄墨の衣・円形の数珠を法義的に示し、下種三宝への観念について述べられています。
 この『六巻抄』は、時の学頭であり第二十八世の法灯を嗣がれた日詳上人に手渡されました。
 その時、
「師子王のような六巻抄があるかぎり、国中の他宗他門の狐や兎のような謗法の者たちが、たとえ群れをなして大石寺に襲ってきても、何ら驚いたり怖がったりすることはない。その時まで秘して保持しなさい(趣意)」
との言葉を添えられました。
 この『六巻抄』は、令法久住・広宣流布のための重要書であり、秘伝書として扱われてきたのです。正しく日寛上人畢生の書であるのみならず、仏法のすべてを要約し、下種仏法の要義をまとめられた秘蔵書と拝すべきです。

  一信二行三学

 日寛上人は教学の振興と共に、大石寺の堂塔伽藍の整備に力を注がれました。特に常唱堂、石之坊の建立、大梵鐘、青蓮鉢の鋳造をされました。
 さらに五重塔建立の基金を用意され、後にその基金をもとに、総本山第三十一世日因上人は東海道随一と言われる五重塔を造立されました。
 また、日寛上人ご自身が御遷化後に種々の憂いがないように、未来広布のための資金も遺されました。さらに、日寛上人は、一信二行三学を修行の基本とされ、常唱堂に常時六人の僧が詰めて唱題行に励むように命じられました。
 晩年、日寛上人が詠まれた、
「ふじのねに常にとなふる堂たてて 雲井にたへぬ法の声かな」(日寛上人伝 一四n)
とのお歌には、日寛上人の唱題を中心とした信心根本の御心が拝せられます。

 江戸下向と観心本尊抄の御説法

 享保十一(一七二六)年正月の幕府年礼〔※A〕の後、そのまま江戸に逗留し、一月十七日より二十三日まで、江戸三力寺(常在寺・妙縁寺・常泉寺)において『観心本尊抄』を御説法されました。
 日寛上人は、最後の御講義の日に聴聞の大衆に向かって、羅什三藏の故事にちなみ、臨終の際には、日頃好む蕎麦を食し、一声笑って後に題目を唱えることを予言され、「もしその通りになれば、自分が今まで説いてきた法門は宗祖大聖人の御意に寸分も異なるところはない」と御説法されました。

日詳上人への血脈相承

 その年の三月に帰山の後、日寛上人はご健康が優れず、日に日に弱られました。
 五月二十六日の早暁には、学頭であられた日詳上人に対し、金口嫡々の血脈相承を行われました。
 日寛上人は、ますます衰弱され、日詳上人をはじめ門弟の方がたびたび投薬を勧められましたが、
「年老ひ娑婆に用なし生死宜しく仏意に任すべし」
と仰せられ、服されなかったと言います。
 こうして六月中旬より、臨終のご用意を整えられました。

御暇乞いと御遷化

 御遷化の一両日前、暇乞い(別れの挨拶)に出られました。
三衣を著して駕籠に乗り、まず本堂(御堂)へ詣り、輿のまま堂の外陣まで担ぎ上らせ、しばらく読経・唱題されました。
 ついで御廟、寿命坊の日宥上人、学寮の日詳上人のもとへ行き、輿中より懇ろに暇を乞い、寺中を下り、師日永上人の妹・妙養日信尼に別れを告げて門前を通り、お住まいである方丈へ戻られました。この時、老少男女、伏し跪いて日寛上人との別れを嘆いたと言います。
 方丈へお戻りになるや、番匠(大工)と桶工を呼び葬式具を造らせ、棺桶の蓋に、
「桶を以て棺に代う 空を囲みて桶と為す 空は即ち是れ空 桶は即ち是れ仮 吾れ其の中に在り 死ぬるとはたがいひそめしくれ竹の 世々はふるともいきとまる身を」
と書し、弟子にこの文を出棺の際に三度吟じて蓋をするよう告げられました。
 八月十八日の夜、御本尊を床の前に掛けさせ、香華灯明を捧げ、臨終を迎えるに当たっての細々とした注意を与えられました。そして、料紙と硯を用意させて末期の一偈一首をお認めになられ、直ちに、持者に蕎麦を作るよう命じられました。
 日寛上人は、かねてからの御言葉通り、蕎麦を七箸食され、莞爾として一声笑い、
「ああ面白きかな寂光の都は」
と仰せられ、口をすすがれて御本尊に向かわれ、唱題を始められました。
 享保十一(一七二六)年八月十九日辰の上刻、日寛上人は、半眼半口にして眠るが如く御遷化されました。そして御遺言に従い、墓は経蔵の裏手、師日永上人の左に並べて築かれました。

結びとして

 江戸時代は、信仰の自由を認めない厳しい幕府の宗教統制の時代でしたが、日寛上人は、
「私に云わく、常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(御書文段 六〇八n)
と記されており、布教に不自由な時代であっても、片時も広宣流布への情熱を失わなかったのです。
 私たちは、日寛上人の信行学の三学を基本とする信仰姿勢を拝し、教学の振興と布教の拡充に全力を傾注してまいりましょう。

※@笈 僧侶や修行者などが、仏具や書籍等を入れて背負う箱。
※A年礼 新年の挨拶に訪問すること。