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中興の二祖(総本山26世) 日寛上人さま A ご生涯 (中) 今回は、日寛上人の御書講義、及び御登座の間の信徒教導について拝します。 御書の講義 正徳元(一七一一)年の夏、日寛上人は細草檀林から退林して、総本山に再興なった学頭寮に入り、第六代の学頭に就任されました。 学頭になられるや、日寛上人は早速、一山の僧へ御書の講義を始められたのです。 今、御登座されるまでの講義を一覧で示せば、次の通りとなります。 正徳元年夏 『法華題目抄』 三年秋 『開目抄』 五年二月二十四日〜 『報恩抄』 五年六月十三日〜 『撰時抄』 五年六月二十四日〜 『立正安国論』 六年六月十三日〜 『法華題目抄』再講 享保二(一七一七)年 『法華取要抄』 このように日寛上人の御書講義により、充実した教学伝受の環境が整ったのです。 個々の講義における聴衆は定かではありませんが、後の『観心本尊抄』講義の聴衆は記録があります。その主な方は、総本山第二十八世日詳上人、第二十九世日東上人、第三十世日忠上人、第三十一世日因上人、寿命寺二代堯感坊日信師、寂日坊日筌師、十一代学頭法泉院日延師などの名前が見られます。 この御書講義の内容は『御書文段』として今日まで残されており、以降の宗門の御僧侶が御書を研鑽する際に、重んじられてきました。 師日永上人の御遷化 日寛上人の師である総本山第二十四世日永上人は、宝永六(一七〇九)年の春に第二十五世日宥上人に御相承され、御隠尊として学頭寮にお住まいになっていました。しかし、正徳五(一七一五)年に入って体調を崩され、二月二十四日に安祥として御遷化になられます。 日寛上人は、師匠の報恩のために、同日より五七日忌に当たる三月二十九日まで、『報恩抄』を講義されました。 『報恩抄文段』の末尾には、このとき、『報恩抄』の講義、自我偈一万三千巻の読誦、百五十万遍の唱題行の所以を述べられて、 「此くの如き講談・誦経・唱題の功徳を以て、報恩謝徳の為に日永上人に供養し奉る(御書文段 四七二n) と仰せられており、篤い師恩報謝の志が拝されます。 六巻抄未治本の著述 これらの御書講義と並行して進められていたのが、『六巻抄』未治本の著述です。 『三重秘伝抄』に、 「正徳第三癸巳予四十九歳の秋、時々御堂に於て開目抄を講じ、而して『文底秘沈』の句に至る。其の義甚深にして其の意解し難し。所以に文に三段を分かち、義に十門を開く」(六巻抄 三n) とあります。『開目抄』の講義の際に、 「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘してしづめたまへり」(御書 五二六n) の句に至り、その御文の深義を詳しく示すために『三重秘伝抄』を御著述されたと記されています。 このほか御書の内容を、血脈相伝によって正しく拝し、日蓮正宗の教義の要義を整足されようとしたのであります。 しかし、『六巻抄』の完成は、再考を経た晩年を待たねばなりません。 御登座 日寛上人は、このように学頭として多忙な日々をお過ごしでしたが、享保三年三月に日宥上人より金口嫡々の血脈相承を受け、総本山第二十六世の法灯をお継ぎになられました。 このとき細草檀林の昇進では、実は総本山第二十七世日養上人のほうが先でありましたが、日寛上人のほうが年長であったので、日養上人は辞して日寛上人にお譲りになられました。そこで日寛上人は足かけ三年のお約束で御登座されたのです。 御当職の間、日寛上人は総本山の整備や僧俗の教導に心を尽くされました。 ここでは特に金沢のご信徒への御指南を通して、その一端を拝することにします。 総本山を遠く離れた金沢の地では、このとき既に本宗信仰の息吹が起こっていました。しかし登山も容易ではなく、日寛上人の御教導も書状が中心となったのです。 @享保三年八月二十一日 福原式治状 享保三年九月十六日 日寛上人状 享保三年に金沢信徒の田屋氏が登山し、この際に福原式治氏の八月二十一日付書状を持参してきました。式治氏は有力信徒の一人でしたが、事情により総本山への登山ができなかったのです。 式治氏の書状は大聖人の第三法門について、御指南を請い奉るものでありました。 日寛上人は九月十六日の返書で、質問の内容が実に深い法門のところであり、式治氏の理解が正しいものであると述べられました。 さらには宗教の五箇(教・機・時・国・教法流布の前後)と宗旨の三箇(本門の本尊・本門の戒壇・本門の題目)についての御指南をされています。 また式治氏はこのとき、百人余りの折伏を達成しており、日寛上人はその信心を賞賛されました。 A享保三年九月晦日 日寛上人状 八月二十六日に式治氏の父が亡くなり、日寛上人のお見舞いの書状が伝わっています。 そこでは父を亡くした式治氏に対して、父子一体の義をもって、菩提のための供養をすることが肝要であると御指南されています。 B享保三年十月二十二日 福原式治状 式治氏は、自らの折伏について、私の力量ではなく仏力・法力のなせるところであると述べつつ、日寛上人よりの御指南を深く拝して、さらなる精進を誓っています。 C享保三年十一月 林・式治書状 享保四年二月十六日 日寛上人 書状 金沢信徒林源太夫氏と福原式治氏との共同で、勤行及び法義に関する質問の書状が届けられました。 日寛上人の翌享保四年二月十六日付返書では、勤行の形式は総本山と同じように五座三座の格式を守るようにと御指南されています。 なおこの頃、金沢で日蓮正宗の信仰について寺社奉行から質疑があったようですが、このときは大きな問題とならずに済んだようです。しかし、日寛上人は、 「大敵前後に之れ在り、若しみかたの内にて少々異儀も候は、敵に利を与ふ」(『諸記録』二二巻一四九n) と、異体同心して講中の結束を固めて、敵につけ入る隙を与えることのないようにと注意を促されています。 D享保四年四月 日寛上人状 享保四年八月 日寛上人状 この頃、福原式治氏から書状があり、そこで式治氏の法門の理解が間違っていたようです。そこで日寛上人は四月の書状で、式治氏のその誤りを指摘されました。 その中で、この指摘は式治氏の迷いを解き、正しい道を示し信行とするもので、耳に逆らうことなく口に苦しと憂うことなく精進するようにと述べられています。 続く八月の書状からは、式治氏が日寛上人の大慈悲あふれる御指南を拝し、自らの誤りを素直に認めて改めたことが窺われます。 E『松任次兵衛殿御報』 また享保三年から五年の書状として、金沢信徒の松任次兵衛氏に与えられた御消息が残されています。 日寛上人は、この書状の中で御本尊受持の信心の大切さを御指南され、 「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ候ひて御供養候とも、もし信心なくばせんなき事なるべし。たとへ一滴一塵なりも信心誠あらば大果報を得べし。(中略)かならずかならず身のまづしきをなげくべからず。唯信心のまづしき事をなげくべきにて候」(宗旨建立と七五〇年の法灯 六八n) と仰せられています。 日寛上人による金沢信徒への御指南を拝してまいりましたが、このように丁寧に、また誤りは誤りとしっかりと示され、また信徒もその御指南に随っていく様子が判ります。 日寛上人の御書講義を拝聴した方々、そして、御指南を受けた信徒の人々が、日寛上人御遷化の後に起きた法難に直面し、苦難の歴史を乗り越えていきます。その忍難弘通の尊い信心のもとは、このような日寛上人の御教示にあったと拝されるのです。 今日の私たちもこれらの御指南を拝し、先師先達の信心の跡を承継し、平成三十三年の御命題成就に向かって精進していくことが大切です。 |