平成29年11月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
          中興の二祖(総本山26世) 日寛上人さま @

                 ご生涯 (上)
 今回からは、総本山第二十六世日寛上人について学んでまいります。
 日寛上人が、第九世日有上人と共に中興の祖と仰がれる所以について、総本山第六十六世日達上人は、
「日有上人は、信行学のうちの信と行を中心として全国を布教せられた(中略)日寛上人は、信行学のうちの、もちろん信行は当然でありますが、学を中心とせられて宗門の行学の中心をなされ、富士の教学の復興をし、大成をせられた上人として、我々は崇め奉っておるのでございます」(大日蓮 三五七号)
と御指南されています。
 御在世当時は、幕府が設けた寺請制度等により、折伏教化が大きく妨げられる時代であったにもかかわらず、宗門の興隆と教義の大成に不朽の功績を残されたのです。

  出生・得度

 日寛上人は、寛文五(一六六五)年八月、上野国前橋(群馬県前橋市)の伊藤家に誕生され、幼名を市之進と称されます。
 延宝元(一六七三)年、九歳の時に実母が逝去され、その後は養母によって育てられました。
 十五歳になると、伊藤家が武士の家柄であったことから、江戸に出て旗本邸に勤められます。また、実母の逝去や伊藤家の先君・酒井雅楽頭の失脚等に世の無常を感ずると共に、菩提のため古来『観音経』として尊ばれていた法華経の『観世音菩薩普門品』を書写し、毎年夏に浅草の観音堂に納められていたようです。
 しかし、宗派を問わぬ観音信仰の在り方に疑問を抱かれ、十九歳の天和三(一六八三)年八月、江戸下谷(東京都台東区)の常在寺(現在は豊島区)に隠棲されていた総本山第十七世日精上人の説法を聴聞するに至り、日蓮大聖人の仏法に縁されました。
 これによって、大聖人の教えこそが、一切の答えを導く正法であると直ちに信伏し、出家を決意されたのです。
 旗本邸の主人は一向にこれを許しませんでしたが、同年十二月、道念抑え難くついに邸を去り常在寺の門を叩かれました。
 この時、日精上人は前月に御遷化あそばされており、同寺の住職で後に第二十四世の御法主に登座される日永上人の徒弟として出家得度されました。

  六部の修行者

  日寛上人が日精上人の説法を聴聞する経緯について、次のような話が残されています。
 ある日、市之進(日寛上人)が邸の門前にいたところ、六部の修行者が鐘を鳴らしながら歩いてきて、休憩のため目の前で立ち止まりました。※@
 市之進は、日頃の疑問について伺ってみようと、
「あなたが背負っているものは何ですか」
と、修行者に尋ねました。修行者は、
「霊場に納めるための法華経です。ですから心中に観世音菩薩を念じます」
と答えます。
 市之進は続けて、
「歩きながら唱えていたのは何ですか」
と問われます。そこで修行者は、
「西方極楽浄土を期して南無阿弥陀仏と称えています」
と返答します。
 この答えを受けて市之進が、
「法華経を納めるために諸国を巡り、口に弥陀の名号を称え、心に観世音菩薩を念ずるとあっては、あなたの身と口と心は相違しているではありませんか」
と、その矛盾を突くと、修行者は答えることができずに立ち去ってしまいました。
 その時、一部始終を見ていた邸の門番が、
「あなたの質問は道理に適っています。私が菩提寺で聞く教えが、この正しい筋道を示しております。そこでは、妙法蓮華経が仏法の根本であり、念仏などは誤った修行であると説かれています」
と、市之進に告げました。市之進は驚くと共にたいへんに喜び、翌日門番に案内されて参詣したのが常在寺だったのです。

  修 学

 日寛上人は出家得度して、道号を覚真日如と賜り、常在寺で僧道を歩まれると共に、折々総本山大石寺に登山して総本山第二十二世日俊上人・第二十三世日啓上人にもお仕えし、修行に勤しまれました。
 元禄元(一六八八)年九月に、師匠日永上人が会津実成寺の住職として赴任されると、随従して会津の地で給仕・修行を続けられます。
 翌元禄二年、日永上人の取り計らいにより、上総国の細草檀林(現在の千葉県大網白里市・遠霑寺)に入林されます。当時は入林する者も多く、学生たちは出自を問わず互いに切磋琢磨し、檀林の最盛期を迎えようとしていました。※A
 日寛上人は、ここで天台学の基礎とな名目条箇部にはじまる、天台三大部を中心とした仏教全般にわたる研鑽に励まれたのです。
 春と秋を細草檀林で過ごし、その合間を本山格寺院や得度した寺院で勤める檀林での修学には、通常三十年の長きを費やします。日寛上人も、合間を大石寺等で勤められながら学労を重ねられました。
 ご自身の修学のため『草鶏記』という天台学の注釈書などを残されています。このように宗乗(大聖人の法義を学ぶ)の基礎として、余乗である天台の学問についても探くその法義を研鑽され、後継の方々のために記述を残されたことが拝せます。
 途中、病による三カ月程の療養期間がありながらも異例の速さで昇進され、宝永三(一七〇六)年からは講師の任に当たられています。そして、およそ二十年間にわたる研学の末、宝永七年頃、檀林の長である能化(化主)となり、名を堅樹院日寛と改められました。

 学頭就任

 日寛上人が細草檀林に入林されて三年後の元禄五(一六九二)年、師匠である日永上人が、第二十三世日啓上人より血脈相承を受けて御登座されました。
 日永上人は御在職十七年の間、御影堂の修繕をはじめとする大石寺の境内の整備、そして六万塔建立から拝されるように宗勢の発展に努められました。
 また興学にも力を注がれ、元禄十年春に御経蔵を建立され、明本一切経を納められています。
 さらに、総本山第二十五世日宥上人に法を付嘱された後の正徳元(一七一一)年夏、先んじて宝永二(一七〇五)年に再興成った蓮蔵坊に学頭寮(学寮)を置き、弟子の日寛上人を学頭に任じて諸御書の講義を命じられました。
 こうして日寛上人は、細草檀林を退き、大弐阿闍梨と号して第六代学頭に就任されたのです。
 次回は引き続き、総本山での御講義の様子や第二十六世の法灯を嗣がれてからの御振る舞いを中心に、学んでまいりましょう。

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@六部とは、「廻国大乗妙典六十六部経聖」「六十六部廻国聖」等の江戸時代における略称で、法華経(大乗妙典)を六十六部書写して六十六カ国(壱岐・対馬を除いた令制国の総数)を巡り、一国一カ所の霊場に一部ずつ納経する「廻国」と言われる修行のこと。
 一国内で六十六カ所を巡る方式や、一国六十六カ所を六十六カ国それぞれで行うなど、定まった方式や決まった霊場はなく、江戸時代には信仰心からではなく、罪人や病人など一所に居住できなくなった者が巡礼する例が増えたとされる。

A細草檀林は、寛永十九(一六四二)年に江戸法詔寺二代の顕寿院日感師が願主となり、敬台院殿が大施主となって、上総(千葉県)に創設された、勝劣派(法華経の本門が迹門より勝れるとする諸派の総称)の学問研鑽所。明冶六(一八七三)年に廃檀になるまで、大石寺門流の多くの僧侶が学ばれた。この細草檀林の能化に昇進された方の中から、二十八名の方が大石寺の御法主上人として登座されている。