平成29年6月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               中興の二祖 日有上人さま B

 前回は、日有上人の『化儀抄』が「信心・師弟相対・行体行儀・謗法不与同」の四つに大別され、その他にも私たちの信心において、その道を違えぬよう、詳細な御指南が示されていることを紹介しました。
 今回は、このうちの「信心」について、『化儀抄』七十三条及び百十九条を学んでまいります。

  御本尊に信を定める

『化儀抄』七十三条に、
「法華宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵・観音・弥陀・薬師等の諸仏菩薩を各各拝する時は信があまたになりて法華経の信が取られざる故に、諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて、妙法蓮華経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるるなり、信を一法に取り定むる時は諸仏所師所以法也と釈して、妙法蓮華経は諸仏如来の師匠なる故に、受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶うなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏亦然と説けり云云」(日蓮正宗聖典 九八七n)
と仰せです。
 ここで日有上人は、末法の衆生は機根の低い愚かな人が多いため、地蔵や阿弥陀仏などの諸仏・諸菩薩を拝めば信じる対象が多くなり、正しい信心ができなくなる。故に、他宗の他仏や菩薩への信仰を厳しく誡めて、諸仏が師とする法、すなわち妙法蓮華経の御本尊一筋に信心を取り定めて受持の信行に徹し、即身成仏を遂げるべきであり、それが諸仏内証の意に適うことになると仰せられています。
 この御指南は、本宗の信仰が大聖人様の唱えられた妙法蓮華経、すなわち本門戒壇の大御本尊に余念なく、絶対の信を取ることを述べられています。

  「即身成仏」と「改転の成仏」

 条文にある「即身成仏」とは、末法の衆生が凡夫の身そのまま成仏することで、これに対して爾前経では「改転の成仏」が説かれています。
 これは、悪人や女人の成仏を許さず、悪人は善人になってから、女人は男子に生まれ変わってから功徳善根を積んで成仏するというものです。
 大聖人様は『開目抄』に、
「法華経已前の諸の小乗経には、女人の成仏をゆるさず。諸の大乗経には、成仏往生をゆるすやうなれども、或は改転の成仏にして、一念三千の成仏にあらざれば、有名無実の成仏往生なり」(御書 五六三n)
と仰せられ、改転の成仏は、法華経の一念三千による即身成仏ではなく、爾前の諸大乗経に説かれる名ばかりの成仏往生であると御教示されています。
 これに対し、法華経の成仏について、大聖人様は『一念三千法門』に、
「凡そ此の経は悪人・女人・二条・闡提を簡ばず。故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云ふ。善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す。故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ」(同一一〇n)
と仰せられ、また、
「法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし」(同)
と仰せられています。
 すなわち、法華経は、悪人・女人・二乗(声聞・縁覚)・闡提(正法誹謗の重罪の者)であっても、その信仰のもとに成仏することができ、大きな功徳が現われるのです。
 特に末法の衆生が即身成仏するには、先の『化儀抄』にあるように大聖人様が唱えられた妙法蓮華経、すなわち本門戒壇の大御本尊に対し奉り、絶対の信を取って御題目を唱えて信仰することが大事なのです。
 この御本尊の功徳について『当体義抄』に、
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」(同 六九四n)
と仰せのように、方便の教え(真実の教えに導くための仮の教え)を捨てて、一心に御題目を唱えるところに、私たちは煩悩・業・苦の苦しみをそのまま仏の徳に転じ、相対種の開会による即身成仏の大利益を得ることができるのです。

  受持の一行

 さらに日有上人は、末法の衆生が行う正しい修行について『化儀抄』百十九条に、
「法華経を修するに五の様あり、夫れとは受持・読・誦・解説・書写等と云云、広して修するは像法の読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したもうなり、日蓮聖人は方便・寿量の両品を助行に用い給うなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり云云」(日蓮正宗聖典 九九七n)
と仰せです。
 ここでは、像法時代と末法の修行を比較され、末法の衆生は法華経一部全体についての読・誦・解説・書写の行をするのではなく、その要法を受持する一行、すなわち本門戒壇の大御本尊を受持して自行化他に励むことが御教示されています。
 この受持は『日女御前御返事』に、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書一三八九n)
と仰せのように、他の読誦等の修行を具足した受持で、これを「総体の受持」と言います。
 しかし、誘惑や悪い縁の多い社会で私たちは生活していますので、この御本尊受持の一行も止めさせようとする魔が起きてくることもあります。
 そこで大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、
「受くるはやすく、持つはかたし。さる間成仏は持つにあり。此の経を持たん人は難に値ふべしと心得て持つなり」(同 七七五n)
と仰せられ、信心を始めるより、その信仰を持ち続けることのほうが難しいことを示され、その上でどんな困難が競い起ころうとも、御本尊を堅く持ち、唱題を重ねていくことが大切であると御教示されています。
 私たちは、この御文をよくよく拝し、日々怠ることなく信心修行に励まなければなりません。

不軽菩薩の受持

 さて日有上人は、受持の一行によって成仏した証人として不軽菩薩を挙げられています。
 威音王仏の滅後、像法時代に一人の僧が、先ほど述べた二十四字の法華経をもって人々に礼拝し、記別(成仏の証)を与えました。しかし記別を受けた人は、かえって怒りの心を持ち、僧罵り、杖で打ち、石を投げるなどの迫害を加えたのですが、僧が礼拝を止めることはありませんでした。故に、この僧は迫害に遭っても人々を敬い、けっして軽視しなかったので「常不軽」と呼ばれたのです。
 『化儀抄』の条文を、信徒である私たちに当てはめて拝すれば、御本尊様を受持し御題目を唱える正行に対し、朝夕の勤行における方便品・寿量品の読誦は助行となります。また、日頃の信行として、自行化他の修行に励むことが法華経の五つの修行を行ずることになるのです。
 末法に生きる私たちも、受持の一行によって成仏できるとはいえ、その受持とは、不軽菩薩のように不退転の信心で自行化他に励むことであると言えます。
 御法主日如上人猊下は、
「今、末法は折伏を行じて、初めて仏様の大きな功徳を受けることができるのであります。まさしく、悪業の因縁を断ち、充実した境界を築き、幸せな日々を送り、功徳に満ちた人生の構築を願うならば、まず折伏を行ずべきであります。そして、それが今日、広布へ向かって前進する我ら本宗僧俗のなすべき使命であり、これが最善の道であることを、我々はよく銘記すべきであります」(大日法 八〇五号)
と御指南あそばされています。
 私たちは、この御指南を心肝に染め、本門戒壇の大御本尊に絶対の信を取り、受持の一行である自行化他に徹し、本年の誓願目標達成に向けて精進してまいりましょう。