平成29年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               中興の二祖 日有上人さま @

 今回から、日蓮正宗中興の二祖と仰がれる総本山第九世日有上人と第二十六世日寛上人について学んでまいります。
 初めに、日有上人について数回に分けて学びます。その第一回目は、日有上人の御生涯の略歴や故事、そして、総本山整備と弘通の御事蹟の一端を紹介します。

  日有上人の略歴

日有上人は、応永九(一四〇二)年四月十六日に御生まれになりました。
 南条家の御出身と伝えられており、幼少にして総本山第八世日影上人を師として出家されました。
 当時、南北朝の合一を果たした将軍足利義満が、隠居していたと は言え、政治の実権を握っている時代です。義満は西国の有力者大内義弘を討伐し、対抗する勢力をようやく西日本まで排除した頃です。
 しかし、絶大な権力を握った義満没後、正長の土一揆や後南朝勢力の動き、さらに将軍と守護大名の力関係が様々に変化していく中で、いくつもの戦乱が起きます。
 日有上人が御遷化されるのは文明十四(一四八二)年ですが、その間には応仁・文明の乱(一四六七―一四七七)が勃発し、特に文明期には激しい戦乱が続いた後、明確な勝者もないままに終結しました。
 しかしさらにその後、社会は戦国時代に向かって移り変わっていくのであり、日有上人はそのような下剋上の時代に活躍されたのです。
 さて日有上人は、十六歳の頃に常陸国村田(茨城県常陸大宮市)の不動院で天台学を学ばれ、そのおよそ二年後、師の日影上人の御遷化に伴って十八歳で血脈相承を受けて御登座されました。
 その五年後には、総本山大石寺の諸堂を再建されたと伝えられています。
 この時の規模は判っていませんが、後の寛正六(一四六五)年には、御宝蔵を小校倉造りにされ、さらに客殿を創建されるなど、総本山の整備に尽くされています。
 当時は室町幕府や鎌倉府の体制が不安定となり、各地で東西両軍に分かれての戦乱を展開し、土地の所有も多くの困難に直面したことでしょう。そのような時代にあって、大石寺境内が日興上人の時代のままに保持できたことは、日有上人の尊い御功績の一つと言えます。
 その後の応仁元(一四六七)年には総本山第十世日乗上人に法をお譲りになられ、自らは甲斐国杉山(山梨県身延町)に法華堂(現在の有明寺)を建立して、お住まいになりました。
 日乗上人は文明二(一四七〇)年に総本山第十一世日底上人に血脈相承をされ御隠尊となられます。しかし、その二年後の文明四年に日底上人、日乗上人が続けて御遷化され、再び日有上人が宗門を統率されることとなりました。
 大きな御事蹟としては、先述の総本山の整備復興に加え、折伏布教に取り組まれたことと、化儀を整理されたことが挙げられます。
 そして、文明十四(一四八二)年九月に法を総本山第十二世日鎮上人にお譲りになり、同月二十九日に御遷化になられました。
 日有上人の御著作としては『大石寺歴代忌日表』(歴代法主全書)などがありますが、御説法や御指南の多くはその他の方々の聞書という形で遺されており、有名な『化儀抄』もその一つです。


  上人道と日有上人の故事

  大杉山の法華堂に住された日有上人は、毎月七日、十三日、十五日には大石寺まで足を運び、御講に詣られたと伝えられています。その際に、一本歯の下駄で山道を歩かれたと伝えられており、現在もその道程を「上人道」と呼んでいます。
 また、高徳の日有上人には様々な故事が遺されています。『家中抄』に記されているものを二つ紹介しましょう。
 ある時に大杉山の近くにある下部の温泉宿を訪れた際、日有上人はたくさんの子供たちがいるのを御覧になりました。
 日有上人が宿主に、「そなたには子供がたくさんいる。一人私の弟子としよう」と述べました。宿主は、そこにいる子供たちは自分の子供だったにもかかわらず、
「私の子供は一人だけなのです。他の子供たちは私の子ではないのです」と断りました。
 すると、それより代々、その家には子供が一人しか生まれなくなってしまいました。
 そこで末裔の人が子供が少ないのを嘆いて、総本山第十五世日昌上人にお願い申し上げ、日有上人の廟所にお詫びに行き、それより子供が多く生まれるようになったと伝えられています。
 また、ある家に行かれたときに、笈の中から鍋を取り出して、家中の人たちに飯を振る舞おうと仰せられました。
 その鍋に水を張って火にかけ、お持ちの袋より米を取り出して、鍋に入れられました。
 ところがその少なさを見た下女が、「これだけのお米では一人二人分にもなりませんよ。到底、全員分はありません」と笑って言いました。
 しかし、日有上人は「よいから火を焚け」と言って取り合いませんでした。
 すると炊きあがっていくにつれてお米の量が増えて、最後には鍋から吹き出るほどになったと伝えられています。
 これらの故事には、日有上人の尊いお徳が表わされているものと拝されます。

  御弘通の足あと

 総本山第五十九世日亨上人は、日有上人の弘通を讃えられて次のように記されています。
「又外に出でては遊化間なく関東の往来数を知らず(中略)或は佐渡越後に駐錫し給ひ、永享の天秦帝都の弘通、東海東山両道の歴程今猶其跡の残れる本広要行の両寺のみならんや」(大日蓮 大正十二年三月号)
 また『家中抄』には、次の御事蹟が記されています。
・越後国(新潟県)の石越にある中山というところにしばらく滞在になられたこと。
・遠江国(静岡県西部)で禅僧から質問を受け、これに答えると、禅僧らは礼して去ったこと。
・駿河国駒瀬(静岡県沼津市)に法華堂(現在の本広寺)を建立されたこと。
 この他、御本尊の授与者などを見ますと、総本山周辺のほか、奧州柳目(宮城県栗原市)や磐城黒須野(福島県いわき市)、下野国(栃木県)、甲斐下山(山梨県身延町)の僧俗の名前が見られ、これらの地方へ弘通の足を伸ばされたことが拝されます。
 さらに日有上人は有明寺、本広寺の他に要行寺(富士宮市)を建立されました。

永享四年の天奏

 永享三(一四三一)年に宗祖日蓮大聖人様の第百五十御遠忌を迎え、日興上人・日目上人の第百御遠忌に当たる同四年に日有上人は後花園天皇に申状を奏進されました。
 当時の大聖人門下は、門流という形が出来て、対立しながらもそれぞれが京への進出を行っている時代でした。しかし、いずれも誤った五老僧の流れを汲み、富士門流の寺院としてわずか上行院と住本寺がありましたが、この二力寺とて、互いに対立している状況でした。
 これらに対し日有上人は、大聖人、日興上人已来の血脈承継の御立場から、御遺命を果たすべく申状を秦進されたのです。
 同時期に幕府に申状を提出した日蓮宗の僧侶・日親が拷問の上で灼熱の鍋をかぶせられたことを併せて考えれば、いかに身命を賭しての御振る舞いであられたかが拝されましょう。
 私たちは、日有上人の御徳と御振る舞いを通して、平成三十三年の御命題を成就すべく、力の限り唱題と折伏に励んでいくことが大切です。