平成27年10月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               法華経について S
『従地涌出品第十五』(後半)

 引き続き『従地涌出品第十五』の内容について学んでいきます。前回は特に本門の序分に当たる前半部分について、教相面を主として説明しましたので、今回は前半部分を振り返った後、本門正宗分に入る後半部分について見ていきましょう。
 『涌出品』に入ると、初めに他方の国土の菩薩方が、娑婆世界での弘教を誓願しましたが、釈尊はこれを許さず一言のもとに制止され、大地より上行等の四大菩薩を上首とした無量千万億もの本化地涌の菩薩を出現させます。
 すると三十二相を具す無数の大菩薩の涌出に対して、此土の菩薩は疑念を発したため代表して弥勤菩薩が釈尊に請を結び、その一方で、他方の菩薩の疑念を十方分身の諸仏が抑え留められました。

  本門正宗分・略開近顕遠

 そしていよいよ釈尊が弥勤菩薩の問いに答えられますが、この釈尊の答えからが後半部分である本門の正宗分となります。
 まず釈尊は弥勘菩薩の質問を讃嘆し、一心に精進堅固の心をもって疑いを懐くことなく、これから説く大事を聴聞するよう誡められます。
 そして、地涌の菩薩は、釈尊が娑婆世界で悟りを開いて以来教導した菩薩たちであると示されたのです。さらに偈頌を説いて、地涌の菩薩の修行と化導の因縁を明かされましたが、偈頌の前半では、重ねて釈尊が伽耶城の菩提樹下に座して悟りを開いてから、無上の法輪を転じてこれらの菩薩たちを教化したと説かれます。
 しかし、偈頌の最後に来たって、
「我今実語を説く 汝等一心に信ぜよ」(法華経 四二二n)
と、釈尊の言葉は真実であるから信じるようにと念を押された後に

突然、
「我久遠より来 是等の衆を教化せり」(同)
と、久遠という遠い昔から、地涌の菩薩を教化したことを簡略に明かされました。
 始成正覚という「近」を開いて、久遠実成という「遠」を略顕わされることから、これを「略開近顕遠」と言います。

  動執生疑・父少子老の譬え

 これを聴いた大衆は、始成正覚への深い執着から久遠以来の教化を未曽有のこととして理解できず、どうして釈尊はわずかな期間で無量の大菩薩を教化できたのかと心が揺れ動き、これまでの地涌の菩薩への疑念ではなく釈尊への新たな疑惑を生じました。これを動執生疑と言います。
 そこで弥勘菩薩は再び釈尊に、どうして悟りを開いてから四十余年という少ない時間で、地涌の菩薩を教化できたのかを問います。
 そして、三十成道の釈尊と久遠の昔から諸仏の元で修行してきたであろう地涌の菩薩の姿について、
「見目麗しい黒髪の二十五歳の青年が、百歳の老人を指して、『これは私の子供です』と言い、老人もまた青年を指して、『これは私の父です、私を育ててくれました』と言ったとしても、このようなことは到底信じがたい(趣意)」(同 四二三・四二六n)
との譬えをもって、大衆の疑惑を示されました。
 続けて弥勤菩薩が、
「一会の大衆はこれまで釈尊に随って聴聞してきたので、言葉に偽りはないと信じているが、妙法蓮華経に疑いを生じて信じなければ悪道に堕ちてしまうので、釈尊滅後の未来の人々が不審を懐かぬよう、無量の菩薩をどのようにして少ない時間で教化し発心させ、不退の位に住せしめたのかをお説きください(趣意)」(同四二四・四二七n)
と釈尊に申し上げて『涌出品』が終了し、次に『如来寿量品第十六が説かれ、釈尊の本地が明かされることになります。

  地涌の菩薩の内証

 前回、地涌の菩薩の来由について、天台大師が『法華文句』に示された教相上の意義から、「次の『寿量品』の説法を引き起こし、その付嘱を受けるため」と説明しました。すなわち、釈尊の弟子として、大きく開近顕遠と結要付嘱の二義を顕わすために出現されたとするのが、外用の御立場です。このうち結要付嘱ということについては、『如来神力品第二十一』を学ぶときに説明いたします。
 さて外用の御立場に対して、その根本には地涌の菩薩の本地、内証が存します。
 実に深い意義のある御法門ですが端的に説明しますと、日蓮大聖人は『御義口伝』において、地涌の菩薩の上首である上行等の四大菩薩を、中国天台宗の道暹という人師の『輔正記』の義を依用されて常楽我浄が四徳という仏様の境界に配し、さらに地水火風空の五大に配されています。大聖人御教示の四徳・五大は、『総勘文抄の即座開悟の御文等を拝するに、久遠元初の御本仏に具わる本有の四徳・五大であり、これを本因下種の南無妙法蓮華経と申し上げます。
 また、大聖人は同じく『御義口伝』に、
「されば地涌の菩薩を本地と云へり。本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり。此の菩薩は本法所持の人なり。本法とは南無妙法蓮華経なり」(御書一七六四)
と、地涌の菩薩の本地について御教示されています。地涌の菩薩は本法所持の人であり、本法とは何かと言えば南無妙法蓮華経であるとの、人即法、法即人の御教示と拝されます。
 これらの大聖人の御教示を併せて考えるとき、久遠元初の御本仏の一身に具わる本有の五大、本因下種の妙法蓮華経こそが、地涌の菩薩の内証の本地なのです。
 さて、大聖人は御書の中で、地涌の菩薩の中でも、特に上首の四大菩薩のうち上行菩薩御一人の末法出現を御示しになることがあります。法華経には、釈尊が上行菩薩のみを特別視する説相は見られませんが、これは大聖人が『百六箇抄』に、
「久遠名字已来本因本果の主、本地自受用報身の垂迹上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮」(同一六八五n)
と仰せのように、大聖人が垂迹上行菩薩の末法再誕であることから、上行菩薩ただ一人を別格として拝するのです。またこの『百六箇抄』の御文には、大聖人が本地自受用報身如来の再誕であるとも示されています。このことからも、末法出現の上行菩薩の本地・内証が、久遠元初自受用報身に在すことは明らかです。

  地涌の菩薩の眷属
  
 法華経に予証された末法出現の地涌の菩薩は、日蓮大聖人に他なりませんが、大聖人は『御義口伝』に、
「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は皆地涌の流類なり」(同一七六四n)
とも仰せられています。本未有善の荒凡夫である私たち末法の一切衆生も、妙法を信受したとき、文底本因下種の大法によって深い因縁が開かれ、法華講衆一人ひとりが地涌の流類、地涌の菩薩の眷属であることを自覚し、実証を示すことができるのです。
 御法主日如上人猊下は、
「我らもまた地涌の菩薩の自覚を持って、その名にふさわしく、大聖人の教えのままに、一天四海本因妙広宣流布達成へ向かって、断固たる信念と強盛なる信心を貫きとおしていくことが大事であります」(大白法七六〇号)
と、御指南あそばされています。来たる平成三十三年の御命題成就に向けて、宗祖日蓮大聖人の本眷属としての使命を自覚し、御法主上人猊下の御指南のもと折伏・育成を推進してまいりましょう。