平成27年3月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               日興上人の御生涯と富士の清流
 
 『日蓮正宗の基本を学ぼう』では、法華経について連載してきましたが、今月は日興上人御生誕七百七十年を迎えますので、日興上人の御生涯について学びましょう。

  御誕生と常随給仕

 日興上人は、寛元四(一二四六)年三月八日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(山梨県富士川町)に御生まれになりました。父親は大井橘六、毋は富士上方河合の由比家の女性でした。


 幼くして父を亡くした日興上人は、蒲原の四十九院(静岡県富士市)に登られました。そしてその頃、『立正安国論』執筆のために、岩本の実相寺(静岡県富士市)を訪れた日蓮大聖人に出会い、お弟子になられます。日興上人は「伯耆房」と呼ばれ、常に大聖人のそばでお仕えしました。
 弘長元(一二六一)年の伊豆配流の際、伯耆房は大聖人を追いかけて、鎌倉から伊豆へと向かってお仕えしました。また文永八(一二七一)年の佐渡配流では、大聖人のお供をして佐渡まで行き、おそばでお仕えしました。佐渡では阿仏房夫妻など、少しずつ外護の檀越が現われてきます。後年、日興上人と佐渡国法華講衆との交流が拝されますが、それはこの時の縁によるものでしょう。


 大聖人は、赦免となって、鎌倉にて第三回目の国諌をされた後、身延(山梨県身延町)へと入られます。この時に身延の地を選ばれたのは、伯耆房を初発心の師匠とする波木井実長が地頭を勤める地であったことによります。
 その後、伯耆房は、大聖人から法華経の講義を拝聴する傍ら、上野郷(静岡県富士宮市)の南条時光殿の館を拠点として、富士方面の弘教に励まれます。
 こうした中、滝泉寺の僧侶であった日秀、日弁、日禅の三師が帰依し、さらに信徒も増えていきました。しかし、そのために滝泉寺院主代・行智らの策謀によって、法華講弾圧の熱原法難が惹起します。
 熱原法華講衆は、伯耆房の指導を受けて信仰を貫きましたが、ついに平左衛門尉頼綱によって神四郎・弥五郎・弥六郎の三烈士が頸を切られてしまいます。
 しかし、この法難の最中である弘安二(一二七九)年十月、大聖人は出世の本懐を遂げるべき時の到来を明らかにされ、十二日に本門戒壇の大御本尊を御建立されました。その願主には、
 「法華講衆等敬白」
と、伯耆房と共に法難を乗り越えようとしている法華講衆の名が刻まれています。
 弘安五年に、御体の不調を覚えられた大聖人は、日興上人に唯授一人の血脈を相承されました。すなわち『日蓮一期弘法付嘱書』に、
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれぱ、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。
  弘安五年壬午九月 日
   日蓮花押
   血脈の次第 日蓮日興」(御書 一六七五n)
と、証文となる付嘱書を記されて、日興上人へ授与されたのです。
 その後、大聖人は、常陸の湯(福島県いわき市)で湯治するために身延山を下りられました。その途上の武州池上(東京都大田区)にて、大聖人は『立正安国論』の御講義をされましたが、御体は弱まり、御入滅間近となってしまいました。
 大聖人は、日興上人を身延山の別当に付され(『身延山付嘱書』)、さらに本弟子六人を選定されます。伯耆房も、その中に「白蓮阿闍梨日興」(日興上人)と選ばれています。
 十月十三日、池上の地で大聖人は御入滅され、日興上人はその御遺骨を胸に身延へと帰山されました。

  身延離山と大石寺建立

日興上人ら六老僧は、大聖人の墓所を輪番でお守りする制度を決めましたが、現実には日興上人の門弟が行っていました。
 大聖人の一周忌にも三回忌にも五老僧は登山せず、ようやく弘安八年に、本弟子の一人民部日向が身延に登山してきました。この時、喜ばれた日興上人は、日向を学頭に任じられました。しかしその後、日向は波木井実長の謗法を助長し、禁じられていた国家安穏の祈祷を行い、さらに絵漫荼羅なるものを画かせる大謗法を行うに至りました。日向も波木井実長も、日興上人の訓戒を聞き入れることはありませんでした。
 ついに日興上人は、
 「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(日蓮正宗聖典 五五五n)
 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書 一六七五n)
との大聖人の御言葉に随って、身延を離山することを決意されました。その御心情は、次の『原殿御返事』に拝されます。
「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(日蓮正宗聖典 五六〇n)
 こうして身延を離山された日興上人は、富士の河合の地を経て、南条時光の招きにより、上野へと移られます。
 そして南条時光より、北に広がる大石が原の寄進を受け、広宣流布根源の寺院である大石寺を開創されたのです。

  重須談所の設立と徒弟育成

 大石寺開創の翌日、日興上人は日目上人に唯授一人の血脈を相承されて、譲座御本尊を御認めになられました。
 日興上人のお弟子方は、次々に塔中坊を建てられ、やがて現在の中央塔中の十二カ坊が創立されました。
 その後、日興上人は、大聖人の本弟子六人にならって本六僧を定められ、後年には新たに新六僧を定められています。
 さらに大聖人の仏法の正義を立てるため、広宣流布への礎のために、僧侶の学問所として重須談所を開かれました。
 日興上人は、大聖人の御書を書き写して大切にされ、また弟子の三位日順らをして、大聖人の教えに背く五老僧との教義や信条の違いを整理させました。この御精神は、『日興遺誡置文』の第一条の、
 「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(御書 一八八四n)
との条文に表わされており、以後の大石寺門流に脈々と受け継がれていったのです。

  御遺誡と御入滅
 
元弘二(正慶元・一三三二)年、沙弥大行(南条時光)が亡くなり、その翌年の元弘三(正慶二)年二月七日、日興上人も安祥として御入滅されました。
 御入滅の前に、日興上人は門弟に対して、『日興遺誡置文』と『日興跡条々事』の二つの遺誡を定められています。
 この『日興遺誡置文』は、二十六カ条からなり、後の総本山第九世日有上人の『化儀抄』と共に、富士門流万代の信条として固く守り伝えられました。
 そして、『日興跡条々事』には、日目上人を座主とし、本門戒壇の大御本尊を相伝し、広布実現をめざして勤行に勤めることなどが定められています。

  富士の清流は滔々と

 爾来幾星霜、日目上人以来の御法主上人が唯授一人の血脈を承継され、本門戒壇の大御本尊を厳護してまいりました。
 いよいよ今月七日、八日には日興上人御生誕七百七十年の奉祝大法要、そして、下旬には記念法要が奉修されます。私たちは、御命題成就をめざして闘い抜いてきた誇りと、日興上人に対し奉る御報恩の念を胸に、この大佳節を迎えることが大切です。
 そして、次なる御命題である平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年に向けて、ますますの精進をお誓い申し上げましょう。