平成25年5月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ M
                   富木常忍 終
  富木常忍殿の生涯を通じて、
前々回は外護の在り方と御供養の精神について、前回は夫人である妙常尼の内助の功と病に打ち勝つ信心について学びました。
 今回は、まず追善供養の姿勢について学んでいきましょう。

  追善供養の姿
 建治二(一二七六)年二月下旬、富木常忍の母が逝去され、翌三月、富木常忍は下総(千葉県)から身延(山梨県)の大聖人様の元へ亡き母の遺骨を奉持して参詣し追善供養をお願いされました。その際、遺骨はそのまま身延の地に埋葬されたと伝えられます。
 『富木尼御前御書』には、
 「かのはわのなげきのなかに、りんずうのよくをはせしと、尼がよくあたり、かんびゃうせし事のうれしさ、いつのよにわするべしともをぼへずと、よろこばれ候なり」(御書 九五五n)
と、長寿を全うされた母の安らかな臨終の様子と共に、自身も病を患いながら看病に当たった妙常尼に感謝する常忍の言葉が書き留められています。三月三十日の『忘持経事』を拝すると、常日頃の孝養の姿や、追善供養を通して変化する常忍の心情が克明に認められています。
 また二年後には、母の三回忌法要を大聖人様にお願いされたことが、
 「其の御志悲母の第三年に相当たる御孝養なり」(同 一二〇七n)
との、『始聞仏乗義』の御文より明らかであり、日頃から母への回向を欠かすことなく行われていたことでしょう。同抄末には、
 「末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり」(同 一二〇九n)
と、大聖人様の仏法による即身成仏の大果、自身のみならず父母を成仏に導く功徳を御教示されています。
 大聖人様御在世当時、富木常忍以外にも直接御指南を仰いだ多くの信徒が、故人の追善供養を行いました。例を挙げると、曽谷法蓮の場合にも、
 「其の時過去聖霊は我が子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、娑婆世界に向かっておがませ給ふらん。是こそ実の孝養にては候なれ」(同 八二〇n)
等、大聖人様からその功徳を称賛されています。私たちも自行化他にわたる信行を重ね、自身が積んだ功徳善根をもって回向に資することが大切です。

  末法出現の本尊
 ここまで三回にわたって学んできたように、富木常忍は門下の中心者として外護の誠を尽くし、大聖人様から夫婦共にその純真な信心を称賛されました。しかし最期まで末法出現の観心の本尊について、その深義を理解するには至りませんでした。
 弘安二(一二七九)年五月十七日に御認めの『四菩薩造立抄』を拝しますと、常忍は、
 「本門久成の教主釈尊を造り奉り、脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。然れば聴聞の如くんば何れの時かと」(同 一三六八n)
と、大聖人様に質問しています。天台の学僧を論破するほど学解の深い常忍でしたが、地涌の菩薩として末法に出現されたのがただちに大聖人様であること、御本尊は南無妙法蓮華経の大漫荼羅が正意であることを理解できず、『観心本尊抄』の、
 「仏像出現」(同 六五四n)
との言葉に執われて、大聖人様に久成の釈尊造立の時期を尋ねたのです。
 この質問に対して大聖人様は、
 「地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん。先づ其の程に四菩薩を建立し奉るべし」(同 一三六九n)
と、対機説法の意義から一往は地涌の菩薩の出現を待って四菩薩を造るべき時であると御教示されましたが、大漫荼羅本尊を正意とする上から、けっして四菩薩の建立を指示されたものではなかったのです。常忍もただちに造像に取りかかることはありませんでした。
 前御法主日顕上人猊下は、
 「やはり人にはそれぞれのお役目があるのです。末法万年の一切衆生救済のために、『観心本尊抄』の真の意義の相伝を承ける方は日興上人様なのであります。また、むしろ、他の弟子には信解できない故に、大聖人様は日興上人以外には真の血脈を伝えることができなかった のです」(大日蓮 五六九号)
と、常忍が『観心本尊抄』の趣意を理解できなかった理由を御相伝の上から明確に御指南されています。
 富木常忍のような方であっても、大聖人様が上行菩薩の再誕にして本地は末法の御本仏であると信解することはできなかったことを思うとき、血脈相伝に則った信心の大事が痛感されます。

  令法久住
 富木常忍の御法門の理解はともかく、弘安五(一二八二)年十月十三日、大聖人様御入滅に至るまで外護と御供養の信心姿勢を貫き、御葬送には香炉を捧持して参列をされました。
 しかし、身延に入山された日興上人とは疎遠となり、弘安八(一二八五)年に身延で奉修された三回忌法要にも参詣することはありませんでした。
 その後、下総の自らの邸を寺として自身も出家した富木常忍は、大聖人様の御書の保管を後継に託し、正安元(一二九九)年三月二十日に八十四歳で亡くなりました。
 現在、常忍だけではなく、太田乗明、曽谷教信等に与えられた御書の多くが中山法華経寺に伝えられ、所蔵されている御真蹟は五十余編を数えます。
 大聖人様の御書は、御在世当時の門下の教導はもちろんのこと、令法久住・広宣流布のため、末法尽未来際の一切衆生に書き残す意義がありました。最初期から大聖人様を外護し、建治三年の『富木殿御書』に、
 「志有らん諸人は一処に聚集して御聴聞有るべきか」(御書一一六九n)
と御示しのごとく、御在世当時には門下の統率をはかり、多くの重要御書を今に伝える常忍の聖教厳護の功績もさることながら、ひとえに滅後弘通を鑑みられた大聖人様の御配慮の賜と拝されます。
 御法主日如上人猊下は、先の法華講連合会第五十回総会の砌に、
 「我々は御本仏大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊を帰命依止の御本尊と拝し奉り、至心に妙法蓮華経と唱え奉るとともに、いまだ貪瞋癡の三毒に苛まれ、不幸にあえぐ多くの人々に対し、また池田創価学会をはじめ邪義邪宗の害毒によって苦しむ人達に対し、一切衆生救済の秘法たる妙法蓮華経を下種し、折伏を行じていくことこそ、今日における我らの最も大事な使命であることを自覚し、講中挙げてこれを実践していただきたい」(大白法 八五八号)
と、御指南あそばされました。広宣流布と一切衆生救済という御遺命の実現に向かって、折伏弘教は僧俗一人ひとりが大聖人様から与えられた役目であると認識し精進してまいりましょう。