平成25年4月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ L
                   富木常忍 2
 前回は、南条時光殿や四条金吾と並んで有力檀越の一人であり、大聖人様から数々の重要な御書を賜った富木常忍殿の聖教厳護の姿、また信徒の模範となる外護の在り方や御供養の信心などを学びました。
 今回は、富木夫人の内助の功、さらに夫人の病を通して病魔に打ち勝つ信心を学んでいきたいと思います。

  富木夫人の内助の功と信心
 富木氏の信心を学ぶ上で忘れてはならないのが、夫人である妙常尼の内助の功です。
 大聖人様は『可延定業御書』に、富木氏が妙常尼を杖や柱のように常に自分を支えてくれる存在として大切に思われていることを四条金吾から聞いたとして次のように明かされています。
 「富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃みたるに、なんど申して候ひしなり」(御書 七六一n)
また『富木尼御前御書』には、
 「やのはしる事は弓のちから、くものゆくことはりうのちから、をとこのしわざはめのちからなり。いまときどきのこれへ御わたりある事、尼ごぜんの御力なり」(同 九五五n)
と、夫の富木氏が大聖人様のもとを訪れることができるのは、ひとえに主人の留守を守る妙常尼の力があってのことであると仰せになられています。
 この中で、矢と弓、雲と竜を例に出されて、夫婦の在り方を、次のように御教えになられています。
 弓なくしては、いくら立派な矢でも飛びませんし、逆に矢がなければ、いくら力強く弓を引いても意味がありません。また竜と雲の関係も同じようにそれぞれの役割があり、相互扶助して、初めてその力用が十分に発揮されるのであり、夫婦の関係も同じで、富木氏と妙常尼はまさに理想の関係でありました。
 富木氏の母親が逝去したときには、
 「ときどのの御物がたり候は、このはわのなげきのなかに、りんずうのよくをはせしと、尼がよくあたり、かんびゃうせし事のうれしさ、いつのよにわするべしともをぼへずと、よろこばれ候なり」(同n)
と、夫からも感謝されていることからも妙常尼は、病床にある母親の看護を一生懸命尽くされたことが拝されます。
 さて前回、学んだ通り、富木氏は、大聖人様をはじめ門下に対して、あらゆる面で外護をなされています。富木氏の妻である妙常尼も衣の御供養をされており、女性ならではの心配りと妙常尼の信心が拝されます。
 ちなみに、御書に見る富木家からの衣類の御供養を列挙しますと、
・文永十年四月に唯一つ。
・同年十一月に白小袖一つ。
・文永十二年二月に帷一領。
・同年に帷一領。
・建治元年九月に衣の布並びに御単衣
・同年十一月に厚綿の白小袖一つ。
・弘安二年五月に白小袖一つ並びに薄墨染の衣一つ、同色の袈裟一帖
などが挙げられます。
 極寒の佐渡や衣食住に乏しい身延の深山幽谷の地において、大聖人様は、富木家からの衣類などの御供養を有り難く受け取られ、末法の法華経の行者に御供養する功徳の甚大さを説かれ、富木家の積功累徳の信心を愛でられました。

『可延定業御書』日蓮大聖人御真蹟(中山法華経寺蔵)
されば日蓮悲母もいのりて  候
しかば、現身に病をいやす のみならず、四箇年の寿命
をのべたり、今女人の御身 として病を身にうけさ せ給。心みに法華経の信心を
て御らむあるべし。しかも 善医あり。中務左衛門尉殿は 法華経の行者なり。命と
物は一身第一の珍宝也。 一日なりともこれをのぶる ならば千万両の金にも
すぎたり。法華経の一代の聖 教に超越していみじきと 申は寿量品のゆへぞかし
閻浮第一の太子なれども短命 なれば草よりもかろし。 日輪のごとくなる智者
なれども夭死あれば生ケル犬に 劣。早く心ざしの財をかさねて、 いそぎいそぎ御退治
あるべし。



  病に打ち勝つ信心
 妙常尼は、文永十一(一二七四)年九月頃より病を患っていました。その病状の様子を四条金吾より聞かれていた大聖人様は、翌年の文永十二年二月に『可延定業御書』を御認めになられ、妙常尼を慰められると共に当病平癒の方途を示されました。
 大聖人様は、『可延定業御書』(御書七六〇n)の中で、「『病』には軽病と重病の二つがあり、重病であっても善い医者にかかって早急に治療すれば命を長らえることができること。また『業』には定業(過去の善・悪の業因によって果報を招くことが決定した業)と不定業(苦楽の果報を受けることやその時期の定まっていない業)の二種類あり、よく懺悔すれば定業であっても消滅する」と仰せられています。
 そして、「一切衆生の病を治す大良薬たる妙法蓮華経の信仰を試みに実践して、功徳の実証を体験し、さらに医術に詳しく法華経の行者である四条金吾殿の治療を受け病を治すように」と勧められました。
 また、「命は三千大千世界の財よりも勝れているから、一日でも長生きして功徳を積みなさい」と仰せられています。
 二年後の建治二(一二七六)年三月には、逝去した母の遺骨を抱えて身延の大聖人様のもとへ訪れた富木氏から、その後の妻の病状について聞かれた大聖人様はすぐ筆をとり、妙常尼に書状(『富木尼御前御書』御書九五五n)を認められました。
 書状の中で、妙常尼に対し、
「病は必ず治ると信じて、まず三年の間は、怠りなく四条金吾殿の治療を受けていくように」と具体的に御指南なされています。
 さらに、「妙常尼は、老齢ではないし、まして法華経の行者であるから、非業の死などは絶対ない。妙常尼の病気は業病ではないが、もし、かりに業病だとしても、法華経の当病平癒の威力は頼もしいものであるから大丈夫だ」と仰せになられています。
 続いて同抄に、
 「尼ごぜん文法華経の行者なり。御信心は月のまさるがごとく、しをのみつがごとし。
 いかでか病も失せ、寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし、身を持し、心に物をなげかざれ」(同n)
と、大聖人様は妙常尼に対して、「あなたは法華経の行者であり、そのご信心による功徳は、満月や満潮のように満ちあふれているのであるから、どうして病が消滅し、寿命が延びないはずがあろうかとの強盛なる信心を持ち、身体をいたわり、心に苦悩がないようにしてください」と病と闘っている妙常尼を励まされました。
 この大聖人様の大慈大悲に妙常尼は勇気づけられて、さらに信仰の確信を深め、大聖人様の仰せの通り、病魔に打ち勝ち、寿命を延ばされました。夫の富木常忍の死去の後は、房州を離れ、娘の乙御前と共に故郷の富士重須に帰り、最後は、重須の地で亡くなられました。
 御法主日如上人猊下は、
 「私達は、まず御本尊様に対する絶対信を持つことが肝心なのです。無疑曰信と言うように、疑いの心を持たない。
 信というのは疑いを持たないことなのです。それで一生懸命に信心修行していけば、病気が完全に癒えることもありますし、または少病少悩と言いまして、その病や悩みも少なくなっていくのです。
 この少病少悩というのは仏様の境界でありますが、我々もそれに近づくことができるということであります。ですから、何かあったら、なにしろ題目を唱えて、一生懸命に折伏していくことが一番大切だということを、重々御存じいただきたいと思います」(大自法 八二二号)
と御指南されています。
 私たちは、妙常尼のように純粋に大聖人様の教えを信じ、強盛に自行化他の信行に励んでいくならば、病に打ち勝つことは疑いないものであると固く信じ、確信をもって信仰に励んでまいりましょう。