平成25年2月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ J
                   池上兄弟 3
 弘安元(一二七八)年九月九日の『兵衛志殿御書』に、
 「殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、二つのかの車をたすけ二つの足の人をになへるが如く、二つの羽のとぶが如く、日月の一切衆生を助くるが如く、兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひぬる御計らひ、偏に貴辺の御身にあり」(御書 一二七〇n)
とありますように、兄宗仲の二度の勘当を乗り越え、ついには父康光を大聖人様に帰依せしめるに至った池上兄弟の信心姿勢について、これまで学んできました。

  父の逝去
 宗仲・宗殿の兄弟は、父康光入信後も身延の大聖人様の元に種々の御供養をお送りし、一家の諸問題について御教示を仰がれるなど、より一層純粋な信仰に励まれました。その様子は、兄弟とその夫人たちに与えられた御手紙から伺い知ることができます。同年十一月二十九日の『兵衛志殿御返事』には、
 「なによりもゑもんの大夫志ととのとの御事、ちゝの御中と申し、上のをぼへと申し、面にあらずば申しつくしがたし」(同一二九五n)
とあることからも、主君からの信頼も厚く一家和楽の信仰生活を営まれていたことが判ります。
 翌弘安二年の二月に逝去された父康光は、大聖人様の御教導のもと、真の孝養とは何かを覚知した兄弟たちの折伏によって、大聖人様の弟子檀那として安らかに臨終を迎えるに至りました。
 康光の逝去の報を受けた大聖人様は、諸難を退け父を成仏へと導かれたことを称賛されると共に、これからも兄弟力を合わせて事に当たるよう書状を認められています。


  『八幡宮造営事』
 弘安四年の春、鶴岡八幡宮の造営に当たり、父から作事奉行の役目を受け継いでいた池上兄弟が讒奏によって工事の任を外されることとなりました。
 鶴岡八幡宮は前年の十一月、宝殿で火災が起こり、かねてこのような事態を想定されていた大聖人様は『八幡宮造営事』を送られ、兄弟二人に対して次のように教導・訓戒されました。
 そもそも父康光から役目を引き継ぎ主君から恩を蒙った身であるから、たとえ一事の行き違いがあったとしても悪く思ってはならない。本来、仰せつけられても辞退するのが賢人であり、むしろ讒奏によって任より外れたことを悦びこそすれ、造営に携わろうとするならばそれは失となると、誡められます。
 さらには日本国の上下万民が謗法の人となっている状況では、八幡大菩薩を崇めたとしても国難を救う力が及ぶことはないと喝破され、大聖人の弟子である池上兄弟が八幡宮造営に携わったために、八幡大菩薩の加護なく他国から日本国が攻められたのだと世間の人に中傷されることを考えれば、造営の任を外れたのも諸天善神の御計らいであろうと御教示されています。
 また、御手紙の末文では日頃の身なりや態度に至るまで細やかな御指導をされており、御手紙を認められたのと相前後して、蒙古軍が壱岐・対馬に侵攻するなど緊迫した世相を鑑みられた大聖人様の池上兄弟に対する深い御慈悲が拝されます。

  池上邸滞在
 さて、『八幡宮造営事』の文中にも、
 「此の法門申し候事すでに廿九年なり。日々の論義、月々の難、両度の流罪に身つかれ、心いたみ候ひし故にや、此の七八年が間年々に衰病をこり候ひつれども、なのめにて候ひつるが、今年は正月より其の気分出来して、既に一期をわりになりぬべし。其の上齢既に六十にみちぬ。たとひ十に一つ今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき」(同 一五五六n)
と大聖人様自ら御身の不調を記されていましたが、長年にわたる死身弘法の御振る舞いにより次第に体の衰弱が進み、弘安五年九月、弟子方の熱心な勧めもあって常陸(現在の茨城県)へ湯治に赴かれることとなりました。
 これに先立ち、日興上人に本門戒壇の大御本尊を付嘱し『日蓮一期弘法付嘱書』をもって滅後の弘通を託された大聖人様は、九月八日、九カ年にわたって一度も出山することのなかった身延の沢を弟子たちと共に出発されました。
 その途中、武蔵国の池上宗仲の館に立ち寄られたのは九月十八日のことであり、以前より御手紙で病状を知り大聖人様の快復を祈っていたであろう池上兄弟たちも、その来訪をどれほど喜ばれたことでしょう。
 大聖人様が宗仲の館に逗留されていると聞いた近隣の檀越等は、大聖人様にお会いしぜひ共御教導いただきたいと参集しました。大聖人様も病の身を厭わず、万代への遺誡の意をこめて『立正安国論』の講義をされたのです。


  大聖人様の御入滅
 十月八日に本弟子六人を定め、十月十三日、『身延山付嘱書』をもって日興上人に身延山久遠寺の別当職を付嘱された大聖人様は、同日辰の刻(午前八時頃)、弟子・檀那が唱題をされる中、安祥として御入滅あそばされ、非滅現減の相を示されました。
 翌十四日、日興上人の指揮のもと葬儀が執行され、池上兄弟も兄宗仲は幡を、弟宗長は太刀を捧持して葬送に列なっています。
 大聖人様が池上の地で入滅されたことについて、総本山第二十六世日寛上人様は『蓮祖義立の八相』の「第八 入涅槃相」に、
 「夫れ釈尊は、霊鷲山に於て、妙法を演説し、霊山の艮に当る跋提河の辺り沙羅林にして、入滅したまへり。聖人は身延山に於て、妙法を講誦し、延山の艮に当る田波河の辺り池上邑にして、寂に帰す。古今道同じく、応に所以有るべし」
と示されています。インド応誕の釈尊は、法華経を説いた霊鷲山の艮の方角(北東)に当たる河の辺で入滅されましたが、大聖人様が入滅の地とされた池上もまた身延山の艮の方角に当たる多摩川の辺であり、仏法の不思議の因縁が観ぜられます。
 大聖人様入滅後の兄弟たちの消息は詳らかではありませんが、一説によると兄宗仲は永仁元(一二九三)年、弟宗長は兄より早く弘安六(二一八三)年に逝去されたと伝えられています。
 私たちも困難に立ち向かう兄弟が常に大聖人様の御指南を仰いで信心に励んだ姿に倣い、御法主上人猊下の御指南を根本に自身の信行を見つめ直すことが大切です。
 御法主日如上人猊下は本年元旦勤行の砌に、
 「身軽法重・死身弘法の御聖訓を心肝に染め、異体同心・一致団結して励まし合い、広布のために尽くしていくところに、必ず大御本尊様の御照覧を仰ぐことができる」(大白法 八五三号)
と御指南あそばされています。「団結前進の年」と銘打たれた本年、父康光を入信に導いた地上兄弟と夫人たちの異体同心の姿勢こそが、私たちが手本とすべき団結前進の姿であると捉え、平成二十七年の御命題成就に向けて年頭からの大前進をお誓いしてまいりましょう。