平成24年9月1日付
日蓮正宗の基本を学ぼう
               御在世の信徒に学ぶ G
                   四条金吾殿 終
 前回は、四条金吾殿がどのようにして主君の勘気を乗り越え、大聖人様が御教示せられた法華経に傷をつけない信心を貫かれたのか、その姿勢を学びました。
 勘気を解かれた四条金吾は、江馬親時の出仕の供に加えられ、さらには所領を加増されるなど、以前にも増して主君の信頼を寄せられるところとなりました。
 その頃、大聖人様の門下においては、日興上人が御自身有縁の駿河国(現在の静岡県)富士方面に弘教をされていましたが、富士熱原・滝泉寺の院主代・行智等は奸計を巡らし、日興上人に帰依する人たちに迫害を加え始めたのです。
 弘安二(一二七九)年に入ると迫害は一層強まり、ついに熱原法難が惹起し、九月二十一日には策謀によって農民信徒二十人が捕らえられ、刈田狼藉という無実の罪を着せられて鎌倉に押送されました。
 日興上人を中心とする熱原法華講衆の不自惜身命の信仰を御覧になられた大聖人様は、十月一日、四条金吾を筆頭とする鎌倉在住の門下一同に対して『聖人御難事』を送られました。当抄では、法難の意義を知らしめ団結と不退の信心を促され、熱原法華講衆を励ますよう御教示せられると共に、
 「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(御書 一三九六n)
と、大聖人様御自身の出世の本懐を遂げる時が至ろうとしていることを示されました。
 そして熱原法難の最中、十月十二日に御図顕建立された大漫荼羅こそ、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」    (同 六八五n)
と仰せられた、一切衆生皆成仏道のための本門戒壇の大御本尊であり、末法出現の御本仏として本懐を成就されたのです。

 その後の四条金吾殿

 大聖人様は建治三(一二七七)
年頃より健康を損なわれていましたが、『中務左右衛門尉殿御返事』に、
 「定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しら
ず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり」
(同 一二四〇n)
と仰せのように、医術の心得がある四条金吾の投薬によって、しばらく小康状態を保たれていました。
 その後も四条金吾はたびたび身延に参詣し、御供養をお届けすると共に、大聖人様の治療に当たられましたが、弘安四(一二八一)年頃から再び不調をきたされました。
 弘安五(一二八二)年九月、『日蓮一期弘法付嘱書』をもって日興上人を法嗣と定められた大聖人様は、弟子方の熱心な勧めもあり、常陸の湯へ湯治に赴かれることになり、九月八日に身延を発たれ、十八日に武州・池上宗仲の館に立ち寄られました。
 これを伝え聞いて参集した近隣の檀越方に対し、大聖人様は病体を厭わず『立正安国論』の講義をされ、身軽法重・死身弘法の精神による広宣流布への精進を説かれたのです。
 しかしながら、いよいよ身体の衰弱が進み、十月十三日、御年六十一歳をもって安祥として御入滅されました。
 日興上人は血脈付法の大導師として一切の葬儀の指揮を執られ、『宗祖御遷化記録』に詳細を筆録されました。その御遷化記録によれば、四条金吾も幡の捧持役として葬送に列なっています。
 御入滅の前後、弘安年間の頃に、四条金吾は身延に近く自身の所領でもある甲州(現在の山梨県)内船へ隠居したと伝えられており、正安二(一三〇〇)年三月十五日、この地で七十一歳の生涯を閉じられたのです。

 『開目抄』を賜る

 四条金吾の生涯で特筆すべきことがもう一点あり、それは『種々御振舞御書』に、
 「去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とゞめんと思ひて勘へたり(中略)かやうに書き付けて中務三郎左衛門尉が使ひにとらせぬ」
 (同 一〇六五n)
と御示しのごとく、末法の主師親三徳兼備の仏を示された人本尊開顕の書たる『開目抄』を賜ったことです。
 法本尊開顕の書として並び称される『観心本尊抄』は、富木常忍殿に与えられました。富木常忍はその法門を理解することはできませんでしたが、後世への保管という観点からも、聖教厳護の任を託されてのことでした。
 それに対して『開目抄』は、その本意は末法の一切衆生に与えられたものですが、竜の口法難という発迹顕本の大事にお供をされた深い因縁の上から、特に四条金吾を選んで授与されたのです。
 もとより富木常忍等と共に信徒の中心的な役割を担っており、大聖人様の佐渡配流によって門下に動揺が広がる中、『富木殿御返事』に、
 「法門の事は先度四条三郎左衛門尉に書持せしむ。其の書能く能く御覧有るべし」
(同 五八四n)
と仰せのごとく、門下一同への教導の触れ頭の任を託されたものと拝されます。

 おわりに

 大聖人様が『四条金御殿御返事(殿岡書)』に、
 「在俗の宮仕へ隙なき身に、此の経を信ずる事こそ希有なるに、山河を陵ぎ蒼海を経て、遥かに尋ね来たり給ひし志、香城に骨を砕き、雪嶺に身を投げし人々にも争でか劣り給ふべき」
 (同 一五〇一n)
と賞讃されていることからも、『開目抄』を賜った四条金吾は渇仰恋慕の念抑え難く、佐渡の大聖人様のもとへ渡島されたことが明らかです。大聖人様は、自界叛逆・他国侵逼の様相を顕わし始めた世情にあって、大切な夫を遣わした妻の日眼女に対しても、その志を賞讃される書状を認められています。
 また『四条金御殿御返事』の、
 「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」  (同 一五〇二n)
との御教示からは、大聖人様が赦免となり身延に入山の後も、身延に何度も参詣されていた様子が伺えます。
   ◇
 これまで五回にわたって四条金吾殿の一生を学んできましたが、大聖人様に信伏随従し奉るが師弟相対の在り方、封建制度の当時に武士という身分にありながら我が身を省みず主君を折伏した姿勢、さらには佐渡、身延の地まで何度も参詣された厚い志と、信徒の鑑としての行業を多々拝することができました。
 そのお姿を手本とし、まずは全支部折伏誓願目標完遂に向けて精進してまいりましょう。